確かにグラスの中身は空になっていた。
だからもう、脱ぎ捨てられた服が散乱するベッドルームでは、人の温もりでしか過去の清算ができない。いや、上塗りに近いそれは、新たな過ちでしかないのかもしれない。
人間、合理的にそうそう簡単に生きられるものじゃない。不合理な生き物だから。ダメだとわかっていても、そうしなくてはいけない矛盾を抱える生物だから仕方ない。
「飲み過ぎだね、三依(みより)。もうやめなくちゃ」
「いいの……止めないで」
「いや、ダメだよ」
サイドテーブルに置いたグラスに伸ばす手は、大きな手のひらに引かれ、抱きしめられた。後頭部に感じる胸板の温もりは心の渇きを潤してくれる。まるで彼だけが、彼こそが、自分のために用意された救世主であるかのようで。
結露を垂らすグラスに視線を流す三依の頬を優しく引き寄せ、彼は唇を重ねる。
「はっ、あ……ぅ」
「ちょっと甘くて、苦いかな」
抜けきらない酒の香りを楽しむように、舌を酌み交わす。
劣情と、熱と。アルコールにかき混ぜられた身体の奥底は、熱くじんじんと高鳴っていく。
「ねえ、……挿れないの?」
甘えるように彼の胸板に縋って、酔いに火照る顔を見上げた。
いつも撫でつけている髪を下ろし、少しだけ冷めた表情の今の彼は色っぽかった。服の上からではわからない引き締まった身体は、普段の柔らかな印象を帳消しにするほどに男らしい。
――どうして、彼と最初に出会えなかったのだろう。
もどかしい表情をして、すぐ笑みに変える彼はおどけたように小首を傾げてみせる。
「もう、いいんだ?」
「その顔……言わせないで」
ごめんよ、と耳元に囁く彼は無邪気に笑う。
すぐさま後ろから回された手が、絹のような白い腹筋をなでていった。下から上に、形のいい双丘を持ち上げるように手のひら全体で包み込む彼は、三依の首筋に唇を当てる。
「は、ぁっ……や、だ」
「嫌いじゃないよね」
「好きだとも、言ってない」
「それこそ、認めることを避ける言い訳だろう」
「そ、んな……こと、っ」
ひとたび舐られるたび、身体が震えてしまう。
顎のラインを吸われ、耳たぶを噛まれた。くすぐったさに合わせた心地よさが下腹部を刺激し、甘噛みされるほどに繁みの奥を濡らしていく。
「見せて」
すり寄せる内ももは胸を揉んでいた手に遮られ、潜り込む中指が秘唇の外側をなでた。ゆっくりと、漏れた愛液で緊張をほぐすような動きは慣れたものだった。
思わず、女の経験が豊富なのだろうな、と彼の顔を見上げてしまう。
そう思うと少しだけ。少しだけ、胸を締めつける痛みに襲われ、三依は首を振る。
「まだ、焦らす……ぁ、ん、気なの……? ……早くして」
そう言って、三依は後ろに手をやり、彼の下腹部に触れた。
そそり立つ竿先に触れ、脈打つようにぴくっ、と反応する仕草を楽しむ。もどかしいのか、透明な液を漏らす彼の熱塊を自身の股に導くと、三依は臀部を突き出すようにして密着した。
「そこまでされて、なにもしない男なんていないよ?」
「こんなに固くしておい、て……んっ、我慢するなんて、言わないでしょ?」
「……」
形ばかりの笑みを向ける三依に、彼はやれやれといったように頭を振る。
前戯までして、はい終わりなんてことはない。彼も彼で、我慢していたのだ。男のやせ我慢ほどみっともないものはない。ずかずかと入り込んできてくれればいいのに。
複雑な感情を抱いたような薄い笑みを浮かべ、彼は言う。
「少しだけ、遠慮していたところがあったかもしれないね」
「遠、り……――ぁっ」
問い返そうとすると、揉みこまれるほどに充血する乳頭をつままれた。
電気が走ったような刺激に背がしなる。その勢いのまま、三依は彼とつながっていた。
「あ、っ、ぁあ……い、ぃ……っ」
これまでの前戯で濡れた蜜路の奥底まですんなりと咥え込む自身に、羞恥よりも相性のよさに口元が緩んでしまう。
「まだ終わりじゃないよ」
抽送(ちゅうそう)をはじめるゆっくりとした腰使いは、緩慢とした快楽を伝えた。もどかしくて、自ら振りたくなる腰が、しかしそのもどかしさこそが全身を満たす快楽へと変貌するさまは、三依を戸惑わせた。
自分でもすべてわかっていない身体を、彼は知り尽くしているようなのだ。
たった数日。それも、一緒にいた時間でいうなら数時間もないのに。
打ちつける腰を一定にして乳房を掴む彼は、勃ち上がる乳頭をこするようにつまみ、溢れる嬌声を舐るように唇を奪っていった。
「甘いね……君は、どこまでも甘くて」
続く言葉は、侵入する舌が伝えるように、口腔を舐り尽くしていく。
それはあたかも求めてやまない――どんなに触れようと、届かない骨の髄までしゃぶりつくそうとするかのような凄絶な口づけに、三依はとうとう息をするのも忘れていた。
舌を絡め、唾液を交わす。
腰を振って、繋がれた手を強く握り返して。
段々と近づいてくる頂に向かって、快楽を貪っていく。
「あっ、ぁ、っ――――」
酔いの回った視界は、明滅していた。
間接照明だけのベッドルームに、そもそも視覚なんて無駄なものだ。
ぶつかる肉と汗の飛沫の音が、漏れる吐息の熱が、快楽に身を任せろと指図してくる。
ああ、これだ。こうしてほしかったのだ。
濡れる肌を重ね、すべて彼とつながったような心地よさに三依は身体の自由を委ねていた。
目尻に浮かぶ涙をシーツに沈め、恋人のような甘い時間を過ごしていく。
「僕たち、相性がいいのかもしれないね」
「う、ん……そうかも、ぁ」
まだ数回しただけなのに、なんて冷静な考えはこの際要らなかった。
渇く喉を潤すため、彼の唇を三依は求める。背中越しだった温もりは、抽送の間隙に向かい合って重なり、シーツを掴んでいた手を彼の背に回す。
「……ねえ、もっと」
抱きしめるほど、腰を打ちつける雄々しい存在に意識が回った。
アルコールが回った頭は腰を振ることに夢中になって、親鳥から餌をせがむ雛鳥のように再三のキスをねだる。
「もっと、して……っ」
「仕方のない子だ」
「あ、や……っ」
その代わりに、と耳打ちする声に頬を染める三依を、彼は抱えるようにして腰を引き寄せた。
「――あ……ッ!」
かみ合わせを確かめるような、小さな動作。
全身を貫く甘い微電流に、三依は声を漏らしていた。
最奥にぴったりと押しつけられただけなのに、それだけで軽く達してしまった。じゅくっ、となにかが溢れるような感覚に、頭がほわほわとしてしまう。だが、
「……やっ、ぁあんっ、そ、れっ……ぇ!」
「嫌だった? でもとても嬉しそうにみえる」
三依はぶんぶんと首を振る。
嫌ではない。好きでもない。これは、どちらでもないけれど、彼の言葉を取れば、認めたくないだけなのかもしれない。
ぐりぐりっ、と剛直の先端を押しつけるようにして腰を固定する彼の手を、三依は無意識に払おうとした。
「あ、いっ……や、ぁ!」
右に、左にと振られるたび、びりびりと全身を辿る痙攣が、だらしなく口を開けさせる。そうしてこぼれ落ちそうになった涎を掬うように口づけする彼は、なおも楽しそうに左右に自ら腰を振る。
「だ、め……これ、ダメだからっ、ぁ」
「どうして?」
「壊、れる……からっ、変に、なる……か、らぁっ!」
とろんとした瞳は、すでにアルコールのせいだけではなくなっていた。
余裕のある笑みを浮かべる彼は、涙を溜める三依の目尻を片手で拭い、「かわいいね」と囁くだけで腰を止めてくれない。
いやいや、と首を振っても、嗜虐の灯がついた黒瞳に道理などなかった。
懇願する三依の耳元で、彼は言った。
「今日だけは、壊れちゃいなよ」
ゆっくりと、たどたどしく左右に振られていた怒張がその瞬間、大きく膨れ上がった。
もう限界だ――言外に告げるその反応に、彼は浮かべる笑みを苦くする。
「一緒に壊れよう?」
「あ――」
最後に見た彼の笑みは、どこか含みがあるようだった。
突如として激しくなる上下運動に、三依はぎゅっと彼の背に回した腕に力を入れ、彼の胸の中で喘いでいた。
「いくよ……ッ!」
時を忘れて乱れる身体は、放出された精によって真っ白に染められていく。
淡く朱に色づいた腹にかけられた白精が、ゆっくりとシーツへと落ちていくさまは、どこか滑稽だった。
汗で濡れ、額にはりついた前髪を指先で払うと、三依は天井を見上げた。
心地よかった。この時間がずっと続けばいいのに、と一瞬でも考えた自分に、頬を緩める。
「……はあ、ぁ……ん、はぁ」
漏れる吐息に、渇く喉。
求めるアルコールはすでになく、あるのは舌の上の微かな苦みだけ。
どうしてだろう。
酒の味は結局、全部忘れさせてくれないみたいだ。
「ねえ……」
目元に腕を乗せ、視界を完全に真っ暗にして、三依は言った。
「今度は、中でいいからさ」
その言葉の意味をきっと深くは考えていない。
だからといって、危険は十分に承知しているはずだった。もしかしたら、彼の申し出を心のどこかで受け入れていて、だからこんな言葉が出てきてしまったのかもしれない、なんて。
「――最後までして」
なんて考えるのは、かつて苦手だった酒の味を覚えてしまったからだろうか。