他より逸早くオープンを決めたホテルの竣工記念パーティーが開かれるのは、それから一週間後のことだった。会社関係のパーティーは何かと面倒だからとこれまで出席を拒んでいたが、どんな心境の変化があったのかという周囲の追求を一切無視して、前日になって参加を決めた。
「私も出席していいの?」
残業を終えて家に帰りつき、すでに眠っていた紀子を起こして話をすると、彼女は寝ぼけ眼(まなこ)で夫である加嶋を見つめる。
「妻帯者は、妻同伴が原則なんだ」
誰が決めたのかは知らないが、加嶋の勤める会社は既婚者の場合は何かと妻同伴の機会が多い。
それまで半分以上夫の話など聞いていなかった紀子は、慌てたようにベッドから飛び降りる。何をするかと思えば、洋服ダンスを開けて、明日着ていく服を選び始めている。
「ねえ、雅之さん。どのスーツがいいかしら。これもこれもみんな古いの……」
「開始は夜だから、その前に新しい服を買ってくればいいよ」
夫の優しい言葉に紀子は小さな嬌声を上げ、感謝のキスを頬にしてから再びベッドに潜る。 まだ寝ないのかと妻に問われ、仕事が残っていると答える。居間の電気とテレビを点け、サイドボードにある酒をグラスに注ぐ。
上司に頭を下げ、来客に頭を下げ、面倒ばかりが多いパーティーに出席することにしたのは、瀬上が来るらしいと小耳に挟んだためだ。
瀬上密という名前は、社内でかなり有名だった。年齢はまだ若いが、所属するインテリアデザイン事務所内でも彼の評判は高い。会社と深い繋(つな)がりのある所長の強い推薦で、プロジェクトに途中から参加することになったらしい。
彼のアイデアは常人の考えを遥かに超え、かつ現実味に溢れたもので、周りをあっと言わせたという。
瀬上。加嶋が引っ掛かったのは、瀬上という名字だ。それほどありふれていないこの名前に、強い関心がある。というのも、あの日六本木で出会った男の名前も、瀬上といったからだ。
あの日一夜限りで終わるのであれば、お互いの素性は必要ない。男は部屋に入るなりそう言って浴室へ向かったが、そこで加嶋はごねた。
『素性を知らなくてもいいという気持ちは理解できるが、君だけが俺の名前を知っているのは、不公平じゃないか?』
浴室の扉に手をかけた男の腕を掴み真顔で言うと、彼は困ったような目を向けた。
『貴方の言うことは、もっともかもしれませんね』
そして、口にした名前が『瀬上』。けれど下の名前は絶対言わなかった。
シャワーを浴びてバスローブを羽織っただけの瀬上の姿を目にした途端、性欲の塊に変化を遂げた加嶋が、どれだけしつこいほどに責めても、彼は下の名前を口にしなかった。
琥珀色の液体にふと、甘い記憶が体に蘇(よみがえ)り、口の中に渇きを覚える。
あの日のセックスは、無意識のうちに欲していた行為そのものだった。
幼さの残る表情を見せる瀬上は、ベッドの上ではまるで別人だった。
主導権は加嶋に与えながら、彼は欲しい物を全て手に入れただろう。
照れるような素振りは誘いで、恥ずかしがる態度は扇情的だった。キスの上手さは言うまでもなく、男を高める術(すべ)も熟知していた。手の指一本一本の動きが巧みで、学生時代さんざん浮き名を馳(は)せた加嶋が、ものの数分で達さざるを得なかった。舌の動きについてはそれ以上。
思い出すだけで容易に熱くなれるぐらい、彼は巧みだった。
それでも己の身の内に加嶋を受け入れた際には、苦しそうに体を一瞬捩(よじ)ったあと、甘え、縋(すが)り、そして求めた。愛しいと思える喘(あえ)ぎを耳に煽られ、さらに深く抉(えぐ)ると、彼は強く加嶋の背中を掴み、腰に両の足を絡ませ、自ら深く繋がってきた。
受け入れる場所は、馴れているようには思えなかった。最初に先を含ませるために、瀬上が持っていた潤滑剤を使用したにもかかわらず解れるまで長い時間を要したし、全部を挿入し終えたあとも、彼の内部が加嶋の存在を許容するまでは大変だった。
すべてを終えたあとでシーツを見れば、彼の流した鮮血でそこは赤く染まり、二人で汗を流しながら浴室で洗濯する羽目になった。途中何度も中断される洗濯の合間にも、加嶋は瀬上を、そして瀬上は加嶋を存分に味わった。 浴室から出てすぐ、夜景を眺める瀬上の後ろから彼の背中を抱きすくめ、もう嫌だと言う口を封じ背後から最後にもう一度抱いて、流れ込むようにベッドに崩れ落ちた。
数え切れないほどの回数のセックスを繰り返し、片方の手では足りない回数のセックスを繰り返したあとで、加嶋は瀬上を離したくないと思った。
言葉を発するのも面倒になり、疲れ果て寝入る寸前、加嶋は目が覚めたら、瀬上の連絡先を聞こうと決意した。
一夜限りにはしたくない。
けれどーーー目覚めたとき、瀬上の姿はなかった。
必死になって瀬上の痕跡(こんせき)を探した。
そして、ベッドサイドのテーブルに置かれていた手紙を見つけた。綺麗な字で記された「ありがとう」という文字に、現実を認識した。慌てて着替えてフロントに走ったが、すでに精算は終えていて、連絡先を聞いても教えてはくれなかった。
街に出ると太陽は南の空に近い位置まで昇っていた。前夜とはまるで違う顔を見せる街を一人で歩きながら、ポケットに入れると、指先に当たるものがある。外してそこに入れていた指輪を目にして、彼の言葉を改めて思い出す。そして、ため息をついた。
あの店に行けば会えるかもしれない。微かな願いを込めて何度か訪れてみたが、彼の姿を見つけることはなかった。他の人間に声をかけられても、その気になれない。求めているのは瀬上だけだ。
会えない日々が続き、失意を覚えた。
名字しか知らない相手だ。もし店で再び会えたとしても、声をかけるべきではないのかもしれない。
一夜限りの相手と、割り切っていたはずではないのか。そう言い聞かせながら、未練がましい気持ちで一杯だったときに、偶然彼と同じ名字を見つけた。その瀬上がパーティーに出席するらしいという噂を聞いて、自分も苦手なパーティーに出席することにした。
同じ人間であればいいと思いながら、そうでなければいいとも思っている。
もし再び彼に会えたらどうするつもりなのだろうか。本当に彼だとしても、無視されるかもしれない。自分はもう一度会いたいと思っているが、彼にしてみれば二度と会いたくない思い出として、あの夜のことは封印されているかもしれない。
「……本当にどうしたいんだ」
加嶋は頭を抱えて自分に問いかけるが、答えは出てこない。いや、わかっていてもわからない振りをしているだけかもしれない。加嶋は自分の気持ちが見えなかった。