2018年7月27日から配信されている『枢機卿の蜜愛花嫁』の番外編を限定公開!
下記よりお楽しみください!!
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『枢機卿の蜜愛花嫁』番外編SS ≪俺さま枢機卿改造計画≫ 著者:茅原ゆみ先生著
喉元のどもとに、手入れの行き届いた銀色の刃やいばが押しつけられた。ほんのわずかでも身じろぎすれば、間違いなく血が流れる。
マレク・フリードルは息を詰めた。自分の命をにぎる男の、銀灰色シルバーグレイの眼を見つめ返す。
こうなることはわかっていた。斬り捨てられる覚悟はできていたはずなのに、いざ剣を突きつけられると、みぞおちが凍りつく。なんと情けないことか――。
「なぜ、アデーラを逃がした?」
銀灰色の眼をした美丈夫が訊きく。レイス・ブルージェク枢機卿――このバルトシェク王国の第三王子であり、マレクの主君だった。
「……最善を尽くす必要がありました。わが国とアンドルシュ皇国との戦を回避するために。アデーラさまは、ご自身の命をかけておられましたので」
「なるほど。戦を回避するためと言うが、おまえはいつ、指揮官になったのだ? 任命した覚えは、おれにはないぞ」
喉元の刃が角度を変える。切きっ先が当たった場所の皮膚が、ちりちりと焦げていくようだ。
「ということは、おまえは自分の独断でアデーラを逃亡させたのだな? マレク」
銀の眼がすがめられ、酷薄こくはくな光を帯びた。レイスの肉感的な唇がゆがむ。
「惚れたのか?」
「猊下げいか――」
「アデーラに惚れたのかと訊いているんだ。答えろ」
マレクは腹を据えた。嘘はつけない。それこそ命取りだ。レイスは、すぐに見破る。
「……敬愛申しあげております」
乾ききった唇から漏れる声は掠れていた。言い終えたマレクは眼を閉じ、鋭い剣先が自分の首を掻き切るのを待つ。
けれど、喉元にぴたりと押しつけられた刃は動かなかった。
「はっ! 敬愛だと? なんとも美しいことだ」
絞りだすような声に続いて、苦しげな呻うめきが聞こえる。驚いて眼をあけると、すぐそばに、打ちひしがれて蒼白になったレイスの貌かおがあった。
「猊下! 僕とアデーラさまは、けっして――」
「もういい! 下がれ! おまえには一週間の謹慎を命じる! 自分の立場をわきまえ、反省しろ!」
吐き捨てたレイスは剣を鞘さやにおさめると、裏切った臣下を捨て置いて立ち去った。
主君の背中を見送ったマレクは、その場に崩れそうになるのを必死でこらえていた。
安堵のため息が出る。膝が震える。胃のあたりが、きりきりと痛む。
一週間の、謹慎――。
もどってきたときには、自分の居場所はないかもしれない。おそれ多くも、主君が愛するあまりに拉致らちしてきた女性を、祖国に逃亡させたのだ。首を斬り落とされなかっただけマシだろう。
(ようやく落ちつける場所を見つけたと思ったのに……また、追放されるのか……)
マレクはもつれた金髪を搔きあげ、空をあおいだ。
七日間の謹慎があけた朝。宮殿に出仕するやいなや、マレクはレイスに呼びだされた。
いよいよ最後通牒つうちょうだ。覚悟を決めて、執務室の扉を叩く。
ところが――。
「これは……どういうことなのでしょうか? 猊下」
渡された純白の軍服一式と、レイスの顔を交互に見ながら、マレクは尋ねた。
東洋には『狐につままれたような』という表現があるらしいが、こういう状況を指すのだろうか。
「おまえは今日から、おれ付きの近衛兵このえへいだ。なんだ、気に入らないのか?」
「いえ、そのようなことは――」
「では、しっかり職務に励め」
マレクは、きらびやかな近衛兵の制服に視線を落とす。
手に入らないはずのものが、こんなに簡単に転がり込んでくるとは。しかも、その場で首を落とされかねない不祥事を起こしたにもかかわらず――。
(怖いな……こんな僥倖ぎょうこうを受けて、大丈夫なんだろうか?)
なんだか、背中がむずむずする。
「そこでだ、マレク――おまえを見込んで、頼みがある」
その声を聞いたとたん、背中のむずむずが、ぞわりとした心地悪さに変わった。
やはり、大丈夫ではなかったのだ。
「僕に頼みとは、どのようなことでしょう、猊下」
動揺を悟られないよう、はきはきと明るい声で返す。
「まぁ、そこに座れ」
近くの椅子に腰を下ろすと、ワインを注いだグラスを手渡された。アルコールを口にする気分ではなかったが、断るという選択肢はなく、ルビー色の液体で唇を湿らせる。
「おまえは、アデーラに異性との付きあい方を指南したそうだな。なかなかに的を得ていると聞いたのだが――」
意味ありげな流し眼とともに予想外の言葉を切りだされ、マレクの心臓が軽く跳ねあがった。たしかに、庭園を歩きながら、アデーラ皇女と男女の機微きびに触れる話をした。
(僕を咎とがめているのか? いや、そうではないな。機嫌は悪くない。こちらに探りを入れているだけか……)
マレクは素早く、そしてさりげなく、レイスの醸かもす雰囲気や外見から、心の内を読み取ろうと試みる。どちらかといえば表情にとぼしい美貌の、ほんのわずかな変化も見逃さないのは、これまでの努力のたまものだった。
「指南というほどのものではありません。アデーラさまの気晴らしになればと」
「なるほど――」
レイスは、長い指で自分の唇に触れる。思案するときの癖だった。
「では、おれにも、その気晴らしとやらを指南してはもらえぬか?」
「は?」
空耳だろうか? マレクは自分の聴覚を疑った。
「どうやらおれは……惚れた女が命と引き換えにしても逃れたいと思うような、クズ男らしいのでな。そんな自分を、どうにかして変えたいのだ」
額にかかる伸びた黒髪の間から、憂うれいのある銀の瞳がすがるように見つめてくる。
「猊下……それは……」
どんな言葉をかければいいのか――マレクは悩んだ。アデーラ皇女に去られたことが、よほど堪こたえているらしい。
「いまのおれでは、アデーラを取りもどせない。協力してくれ、マレク。おまえだって、敬愛する女性の不幸は望まないだろう?」
この期に及んでも、彼女にふさわしい男はこの世で自分ただ一人だと、レイスは一点の曇りもなく信じているのだ。
たいしたものだ――マレクは思う。
見ようによっては狂人かもしれないが、歴史を動かすのはたいてい、こんな人物だ。
一方で、彼のこの思い込みと執着こそが、アデーラ皇女にとって不幸の元凶になっているのかもしれないのだが――。
それでも、アデーラ自身もレイスのことを憎からず思っていることを、マレクは知っている。二人とも不器用で奥手なだけだ。仲を取り持つために骨を折るのは、やぶさかではなかった。
(たしかに後宮で働いてきたおかげで、女性の気持ちを察することは上手くなった。けれど、臣下である僕の指南を受けたいなどと、猊下は本気で考えておられるのか……?)
マレクは礼を失しないようさりげなく、主君のようすを観察する。
いまのレイスの顔色は良いとはいえない。よく見れば、眼の下にうっすらと隈くまが浮いている。心なしか頬もこけたようだ。だが、そんなことよりも深刻なのは、「この男には何を言っても無駄なのだ」と周囲を納得させる、あの『俺さまオーラ』が感じられないことだった。
マレクは愕然がくぜんとした。
傲慢ごうまん、強引、冷酷、ひとりよがり――けれどそのアンバランスさゆえに、抗いがたい魅力で多くの人々を惹きつけてきたカリスマ枢機卿が、女に振りまわされる、ただの悩める男に成り下がってしまった。
(『俺さまオーラ』を失った猊下など……もはや主君とは呼べないではないか!)
マレクは決意する。
こんな腑抜ふぬけのような男に仕えていたくない。自信を取りもどさせなくては。なんとしてでも――。
「猊下。臣下の一人に過ぎない僕の指南を受けてまでご自分を変えたいと、本気で思っていらっしゃいますか?」
マレクは、レイスを正面から見据えて尋ねた。
「もちろんだ」
「では、約束していただけますか? そのあいだ猊下と僕は、主君と臣下ではなく対等の立場に立つ、ということを。そうでなければ、指南などできません」
一瞬の間のあとで、レイスはゆっくりとうなずいた。
「承知した。おれに、二言にごんはない」
こうして、のちに語り草となる『ブルージェク枢機卿改造計画』の火蓋ひぶたが切られることとなった。
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