第四話
御曹司の契約花嫁~期間限定の結婚ですが、溺愛されています~
著作:沙布らぶ Illustration:ひなた水色
第4話
「お帰りなさい。あの人、大丈夫そうだった?」
「う、うん……その、ちょっとだけ色々あって――あ、おまんじゅう、おいしかったって」
余程先ほどの環希の様子が切羽詰まって見えたのか、母が心配そうに尋ねてくる。
それに対して曖昧な笑みを浮かべた咲李は、彼と結婚することになったという事実をどう説明しようかと考えあぐねていた。
環希が話を合わせてくれるとはいえ、確実に心配をかけてしまう。両親は人がいいものの、もしかしたら彼に騙されていると説得してくるかもしれない。
(でも、あの人はきっと――そういうことをする人じゃ、ないんだろうな)
祖父への想いを語る環希の横顔は、どこまでも誠実だった。
人を見る目があると胸を張れるほどではないが、長く接客業をしてきて、そういった目は多少養われているはずだ。
そんな咲李から見ても、彼は悪い人ではないと思えた。
「あのね、今度――彼ともう一度会えないかってお話があったの。おじいさんのこととか、色々含めて……それで、お母さんたちも来れるかなって」
「お話? えぇ、大丈夫だとは思うけど……この名刺、もらったの?」
環希からもらった名刺を見せると、母はしばらく書かれている文字を目で追った後、首がもげそうな勢いで名刺と娘を見比べた。
「ちょ、ちょっと! 志津野商事の専務って……えっ、テレビでCMやってる、あの志津野商事?」
CMでよく流れているフレーズを口ずさんだ母に、咲李はそっと頷いた。
「うん、そうだって。すごくびっくりしたけど、話してみたら普通の人だったよ。すごく、いい人だった」
いい人、という漠然とした言葉でしか、今の咲李は彼のことを言い表せない。
これから彼と結婚するというのに、その詳しい性格も、好きな食べ物も、なにも知らない――だが、今更結婚をなかったことにしてくれと言うことはできない。
(志津野……いや、環希さんを信じれば大丈夫。きっと、悪いようにはしないはず……)
その場は軽く濁して、咲李はいつも通り店の接客に戻った。
それからは相変わらず、日に数名の客がやってくるだけの日々――少し変わったことと言えば、数人の男性たちがやってきて、まんじゅうを数箱買っていったことだろうか。
「あ、環希さんから連絡……」
いつもと同じような日々を過ごして数日、土曜の夜に環希からメッセージが届いた。
中身を見てみれば「準備が整ったので、一度連絡をください」という内容だった。
「……え!?」
風呂から上がり、ベッドの上でぼんやりと動画を眺めていた咲李は、それを見たとたんに一気に意識が覚醒する。慌てて体を起こし、部屋の中を少し歩き回ってから呼吸を整え、電話をかける。
コール音が三回、その間、やけに胸の鼓動が大きくなっているように思えた。
『――はい、志津野です』
「……た、環希さんですか? 咲李です」
『咲李さん! もしかして、さっき送ったメッセージ読んでくれたの?』
最初は硬質な声だったが、電話を掛けてきたのが咲李とわかると、その声がぱっと跳ねるように明るくなった。
それに安堵を感じながら、咲李はゆっくりと話しはじめる。
「はい……あの、準備が整ったって……」
『あぁ、そうそう。家とか、婚姻届けの準備とか――今まで一人暮らしで、家の中散らかってたからさ。片付けたりしてたんだけど……あと、君の実家の経営状況とか、簡単に調べてみたんだ』
電話越しの声は、この前直接話した時よりも若干年若く聞こえた。
それでも、手際よく結婚のための準備を進めてくれているという事実に頼もしさを感じる。
「経営状況、ですか」
『本当に、ぱっと見でわかるくらいのことだけどね。SNSとかも頑張ろうとしてるってこととか……お店の中も、色々模索してるみたいだったし』
環希の言葉は、どれも的確に咲李の迷走を言い当てている。
ぐっと言葉に詰まっていると、彼は電話の向こうで小さく笑ったようだった。
『大丈夫だよ。なんとかできる――少なくとも、今手元にある材料だけで、俺はそう判断してる。味が明らかに落ちたとかならまだしも、菊露さんのお菓子は美味しいし』
どこか実感のこもった言い方にふと、店にまんじゅうを買いにきた男たちのことを思い出した。もしかしたらあれも、環希の調査の一環だったのかもしれない。
「環希さん……」
『とにかく、都合がいい日が決まったら連絡をくれないか。こちらでもスケジュールを合わせられるようにするから』
素直にありがたい申し出だと思ったが、本来予定を合わせるのならば自分たちがそうするべきだ。彼が多忙だというのは、率いている会社の規模から容易に想像がつく。
「あの、環希さんもお忙しいですよね? こちらの方で日程を合わせるので――」
『完全に俺に予定を合わせようとしたら、その間に爺さんが死んじゃうかもしれないから』
それは、決して茶化しているわけでも、冗談めかしているわけでもない。
単純に、その可能性が高いという事実を述べている――それが、更に重たく咲李の肩にのしかかってきた。
「あ……そう、ですよね。じゃあ両親に聞いて、また日程をお伝えします」
彼がどんな世界に住んでいるのか、その一端を今の一言で垣間見たような気がした。
予定をしっかりと空けようと思えば、祖父の余命である半年を越える。それほどに多忙な人物が、自分のために時間を割いてくれている。
(環希さんがここまでしてくれたんだから、わたしも……わたしも、自分の役割を果たさないと)
咲李の身に起こった変化は、驚くほどに彼女の気持ちを前向きにした。
環希との結婚が決まってから、咲李は自分にできることはなんであるのかをもう一度考え直すことにしたのだ。
両親に環希と会える日を聞き、彼に再度連絡をする。それから、あまりに反響がなくて滞っていたSNSの更新を再開し、動画などでいわゆる『映える写真』の撮り方も勉強した。
それでも客足が急に増えることはなかったけれど、週に一度か二度はSNSを見た客が訪問してくれるようになった。
「咲李、今日ってどうするの? その、志津野さんとお会いするんでしょう」
「うん――場所は東都ホテルの二十階だって。中で食事でもしながら、って言ってたよ」
そしてついに、両親とともに環希に再会する日――父は慣れない背広を着て、母も余所行きのワンピースに身を包んでいる。
どことなく緊張したような二人だったが、咲李はそれ以上に身も心も休まらない。昨日は全く眠れなかったし、どこからどう両親に説明をしようかとばかり考えていた。
(お父さん、怒るだろうな……)
店の再建がしたいからよく知らない人物と結婚したと言えば、まず父は絶句するだろう。優しい母は驚きで泣いてしまうかもしれない。
あらためて、自分の行動が軽率だったかもしれないという考えが頭をよぎったが、それと同時に環希の頼もしい言葉も思い出す。
(自分に任せてくれれば大丈夫、って言ってたけど……)
タクシーで東都ホテルに向かい、二十階にあるカフェバーへと到着する。あまり格式張っていない店をチョイスしてくれたのは、環希の心遣いだろう。
「あの……志津野で予約していると思うんですが……」
「志津野様ですね? お連れ様はもういらっしゃっております。こちらへどうぞ」
心臓が飛び出てしまうくらい、力強く脈を打っている。
店員に案内されて席に通されると、そこにはすでにスーツ姿の環希が座っていた。
「咲李さん、こっちこっち――すみません、お忙しいところお呼び立てしてしまって。志津野環希と申します」
咲李を隣に座らせて、環希は両親に頭を下げた。
「そ、その――志津野、さん? なにかお話があるってうかがっていたんですが……本日は一体、どのようなご用件で?」
飲み物をオーダーし終えたところで、話を切り出したのは父だった。
父からしてみれば、いきなり大企業の重役に呼び出されたのだ。理由もわからず、かなり混乱しているらしい。
「はい……敢えて咲李さんには、詳細をお話ししないようにお願いしたんですが――」
テーブルの下で、環希がぎゅっと咲李の手を握った。
心なしかその手のひらは汗ばんでいて、ここまでスマートに両親と咲李に笑いかけてくれた印象とは少し異なる。
「じ、実はですね。先日、雪江さんの件でそちらに伺った際……咲李さんと、色々お話をさせていただいたんです」
若干声が上擦っているのも、聞き間違いではないだろう。
(もしかして環希さんも、緊張してる……?)
出会ってから数回しかやり取りはしていないものの、彼がこういったことに緊張するというのは意外だ。なんとなく、いつでもあの余裕を崩すことがないのだと思っていた。
「それで――端的に申し上げますと、俺からその場で、咲李さんに告白をさせていただきまして」
(……え?)
(第五話へ続く)
第五話の配信は2/22予定