第三話
御曹司の契約花嫁~期間限定の結婚ですが、溺愛されています~
著作:沙布らぶ Illustration:ひなた水色
第3話
志津野商事は、国内大手の総合商社だ。
戦後の復興期に設立され、今では海外にも多くの拠点を置く大企業――そんな会社の専務が、これほどに若い男性だとは思わなかった。
「志津野、さん……」
「その、祖父というのが俺の育ての親でして――今は病院に入院しているんです」
環希曰く、彼の祖父というのは一代で志津野商事を立ち上げ、国内有数の大企業に押し上げた人間なのだという。
数年前までは社長として会社のかじ取りをしていたが、体調を崩しがちになってからは知人にその役目を譲り隠居生活をしていたらしい。
「会社は、いずれ俺が継ぐことになってる。今は現場を見たり、実際に経営に携わったりして経験と実績を積んでるんだけど――去年の冬に、爺さんが倒れたんだ」
手渡されたまんじゅうを食べながら、環希はぽつぽつと状況を話しはじめた。
最初はビジネスライクな敬語を話していたが、それも徐々にほどけていく――それほど、祖父のことで悩んでいたのだろう。
「医者からは、余命半年と言われたんだ。……俺は両親を早くに亡くして、爺さんに育ててもらったから――今までの礼も込めて、爺さんが世話になったっていう雪江さんに会わせてあげたくて」
「そうだったんですか……」
おそらくは祖父自身も、自分に残された時間が少ないことを悟っていたのだろう。
会社のことも財産のことも、彼の祖父はしっかりと弁護士を立てて環希に相続の手はずを整えてくれたという。
だからせめて、祖父が会いたがっていた人物に会わせてやりたい――そんな環希の気持ちは、咲李にも痛いほど理解できた。
「あの……祖母はもう亡くなっているんですが……わたしになにか、お手伝いできることはありませんか?」
咲李は昔から、なにかあれば祖父母の元で過ごしていた。
両親が店に立って忙しいということもあったが、上品で優しい祖母は咲李の憧れで、いつか自分も彼女のように年老いたいと思っていたのだ。
そして、祖父のことを話す環希の口ぶりには、自分と同じような祖父への尊敬と憧れが込められていた。
「み、見ての通り、お店は潰れかけだし、わたし自身も特別なことができる人間じゃないんですけど……祖母の代わりにお力になれることがあれば」
大企業の役員である環希と比べて、咲李にできることはあまりに少ない。
だが、これは祖父の望みを叶えたいという一人の青年の願いだ。大きな後ろ盾や資金がなくとも、せめて祖母の思い出話をするとか――そうした手助けなら、なにかできることがあるのではないだろうか。
「――できること……」
咲李の提案に、環希はしばらく黙り込んだ。
手の中にあった食べかけのまんじゅうを全て食べ終えてから、彼はゆっくりと顔を上げる。
「あの、名前を教えてもらっても?」
「あっ……荘野咲李です。李(すもも)が咲くって書いて、えみりって読みます」
李は、祖母が好きだった花だ。孫の性別が女性だとわかった時、祖母がどうしてもその漢字を名前に入れたいと両親にお願いしたのだという。
「咲李さん……じゃあ、あの――すごく失礼かもしれないけど、お願いをしてもいいかな」
「もちろん! わたしにできることだったら、お手伝いさせていただきます」
すっかり環希の言葉に共感しきった咲李は、できることならなんでもするという気持ちで頷いた。
すると、環希はきょろきょろと周囲を見回し、それからなにかを決意したように咲李の手を取った。
「俺と、結婚してください」
「……え?」
突然告げられた言葉に、咲李の頭の中は一瞬真っ白になる。
自分が彼にプロポーズされたのだと気が付いたのは、それから更に数秒後――疑問符をたくさん浮かべながら、咲李は環希の目を見つめた。
「け、結婚? 誰と誰がですか?」
「俺と、咲李さんが。……期間限定でいいんです。祖父は、俺に恋人がいないこととか、結婚していないこともすごく心配してて――亡くなった人に会わせてやることはできないけど、せめてその心配だけでもなくしてやれたら……」
環希が言っていることと、彼の気持ちは理解できる。
彼の祖父も、手塩にかけて育ててきた孫が一人前に家庭を持つところを見たいという願望はあるだろう。それも、彼が志津野商事のように大きな会社を背負って立つ人間であるのならば尚更。
だが、咲李と環希は今しがたであったばかりだ。
お互いの名前だって、ついさっきようやく知ることができた。そんな人間同士が、交際期間も経ずに結婚するというのはなんだかおかしな話だ。
「でも……」
「もちろん、無茶な話なのはわかってます。俺にばかり都合がいい話で、咲李さんの意思を尊重してない――だから、これに関しては全然……断ってくれても構わない」
なんの冗談だと言いたくなったが、環希の目は本気そのものだ。
その気迫に押されて、咲李は彼の話に聞き入ってしまう。
「ただ、もしも……もしもこの話を受けてくれるなら、俺もなにか咲李さんにお返しができたらと思うんだけど」
黒目がちな目でじっと咲李のことを見つめながら、環希は軽く頬を掻いた。
「さっき、お店が潰れかけてるって言ってなかった?」
「それは……は、はい。お恥ずかしながら、祖父母が亡くなってからお店の経営がうまくいかなくて」
初対面の人間に話すような話題ではないが、環希もまた自分を取り巻く現状について話してくれたのだ。恥を承知で現在の菊露の状況を話してみると、彼は顎に手を当てて首を傾げた。
「なるほど――味が大きく変わったとかではないんだね? さっき食べたおまんじゅうも美味しかったし……地理的な条件と、客層の縮小……多分、それなら俺にもなんとかできるかもしれない」
「で、できるんですか?」
「前はマーケティングの部署にいたんだ。規模にもよるけど、今は個人が経営する商店でもブランディングに成功しやすいから」
その言葉に、一気に目の前が明るくなったような感覚になる。
数日間胸の中にわだかまっていたモヤのようなものが消えていく心地がして、咲李は思わずゴクリと唾を飲んだ。
(菊露を、廃業しなくていい……でも、そのための条件は――)
事業の再建というものは、多かれ少なかれお金が動くものだ。
それを、全くの他人である咲李が、見返りもなく環希に手伝ってほしいというのは虫がよすぎる。これはあくまで、彼と期間限定の結婚生活を送る対価なのだ。
「わ、わかりました。……結婚、しましょう」
決断は早かった。一瞬でも躊躇ってしまえば、頷くことができないと思ったから。
元々恋人はいないし、そこまで結婚願望も強くなかった。店を継いでくれるような職人と結婚した方がいいのかもしれないとは思っていたが、店の存続そのものが危機的状況にある中で手段は選んでいられない。
「……大丈夫なんですか? 俺、結構無茶なこと言いましたけど」
「大丈夫です。あの、お店を立て直したいっていうのはもちろんなんですけど――環希さんが、どれだけおじいさんのことを尊敬して、大切に思っているのかが伝わってきたので」
我ながら、苦しい言い訳だとは思う。
だが、せっかくの申し出を断れるほど菊露の状況がいいわけでもない。それに、少し話しただけで彼の誠実さが伝わってきたというのは本当だ。
「おじいさんのことを心配させたくないっていう気持ち、わたしもわかります。……わたしも、祖父母が大好きだったので。だから、あの店を――なんとしてでも、存続させたいんです」
「咲李さん……」
「志津野さんのことを利用するような形になって、申し訳ないとは思います。でも……」
膝の上できゅっと拳を作った咲李は、申し訳なさそうに頭を垂れた。
打算と言われればその通りだ。彼にとっても、結婚というイベントは人生の中でかなり大きなものだろう。それを、実家の再建のために利用させてもらうのは心が痛む。
だが、罪悪感に駆られる咲李に、環希はゆっくりと首を振った。
「利用するような真似をしてるのは、俺も同じだよ。今、あの店と咲李さんが置かれてる状況がよくないっていうのはわかるし――その上でこんな話をしたんだ。俺も、結構ずるいことをしてる」
彼は黒目がちの瞳でじっと咲李のことを見つめると、確かめるようにゆっくりとした口調で再度確認をしてきた。
「それでも、大丈夫? 祖父が亡くなるまで……籍を入れて、話を合わせてくれるだけでいいんだ。あとは君の自由にしていい」
「は、はい。大丈夫です――わたしが協力できることなら、なんでもします」
結婚というより、これは共闘だとか、契約に近い。
再び頷きあった二人は、後日もう一度顔を合わせるということで合意した。両親にこのことをどう説明しようかと迷ったが、それについては環希の方でうまく話を合わせてくれるらしい。
「俺は一度会社に戻るけど――咲李さん、連絡先を教えてもらってもいい? 必要な準備とか手続きは、悪いけど俺の方で進めさせてもらう。準備ができ次第、また連絡するから」
「わかりました。あの、志津野さん……」
「おっと、結婚するんだから、苗字で呼ぶのはちょっと変かな。咲李さんも志津野の姓を名乗るんだし――環希って、呼んでごらん?」
そう言われて、咲李は思わず口元に手を当てた。
確かに、これから結婚しようという男性のことを苗字で呼ぶのは少し違和感がある。
「た……環希、さん」
「よし。他に困ってることがあったら、いつでも連絡して。店のことでもいいし――電話に出られなかったら、後でこっちから掛けなおすから」
にっこりと、それでいてどこか満足そうに微笑んだ環希に、咲李は何度も頭を下げた。
時間にして一時間も経っていないのに、自分の人生が大きく変わってしまった。未だにその実感もわかないまま、咲李は店の前で環希と別れ、ふらふらと店へと戻っていった。
(第四話へ続く)
第四話の配信は2/18予定