第四話
著作 有允ひろみ Illustration きらた
第4話
しかし、モテ男の彼の事だ。
きっと彼は、志穂が知らないうちにいくつもの恋愛を経験してきたのだ。そうでなければ、今のような余裕たっぷりの言動は取れないだろう。
(さすがエリート弁護士だなぁ。エスコート上手だし、いかにも女性の扱いに慣れてるって感じ)
少なくとも、健太は自分より恋愛の経験を積んでいるに違いない。
だとしたら、今回の疑似恋愛は健太主体で進めた方がいいのではないか。
恋愛運のない自分がヘタに能動的になるよりも、普段そうであるように彼に導かれる感じでいれば、遥かにいい結果が得られるように思う。
つらつらと考えながら何度となく健太とのキスの感触を思い浮かべる。そうしているうちに、なにやら下腹の奥がじんわりと熱くなってくるのを感じはじめた。
「えっ……?」
まさか、あんな短い間のキスで身体が反応しているのだろうか?
「恋人ごっこ」をしているとはいえ、相手は幼馴染だ。
久しぶりのキスだとしても、さすがに過剰反応では?
もしくは、それだけ異性との親密な触れ合いに飢えていたという事だろうか?
腹ペコのハイエナじゃあるまいし、何をそこまでがっついているんだか……。
我ながら恥ずかしい!
志穂はハイヒールのつま先に力を込め、込み上げてくる不可解な熱を抑えようとした。だが、熱は治まるどころかじわじわと全身に広がりはじめている。
いくらアルコールが入っているとはいえ、こんな経験ははじめてだ。
ましてや、健太とは生まれた時からの仲であり、これまで一度たりとも恋愛の対象として意識した事はなかったのに……。
今さらのように恥じらいを感じて、志穂は唇を強く噛みしめた。
(なんでこんなに焦ってるの? 私、もしかしてとんでもない提案をしたんじゃ……)
志穂がにわかに不安を感じ始めた時、健太が席に戻ってきた。
「おまたせ。じゃ、行こうか」
彼は志穂の肩にそっと手を置くと、にっこりと微笑みを浮かべた。その顔が、びっくりするほど魅惑的だ。
「う……うん」
志穂は彼に促されるままに店の外に出て、エレベーターホールで立ち止まった。健太が操作盤に近づき、上に向かうボタンを押す。
「え? 下に行くんじゃないの?」
振り返った健太が、志穂を見てニッと笑う。
「さっき、今日は朝まで付き合うって言ったろ? 上に部屋をとったからそこへ行こう」
確かに朝まで付き合ってもらうつもりではいた。けれど、まさかホテルの部屋で二人きりで過ごす事になるなんて想像さえしなかったのだが……。
そうはいっても自分から言い出した手前、断るわけにもいかない。すぐにやってきたエレベーターに乗り込み、健太とともに上階を目指した。
降り立ったのは最上階のエグゼクティブフロアだ。
「ちょっ……ここって、スイートルーム専用のフロアだよね?」
具体的な宿泊料金はわからないが、このクラスのホテルだとかなり高額だと思われる。
少なくとも、何十万単位?
志穂が及び腰なのを見て、健太がそっと背中を押して前に進むようエスコートしてくれた。
「そうだ。恋人と夜を過ごすんだから、これくらい当たり前だろう? 志穂は招待されたお客さまとして、ただ楽しんでくれたらいいから」
廊下を行き、途中にあったコンシェルジュデスクでカードキーを受け取る。
そのまま廊下の奥まで進み、部屋の中に足を踏み入れた。目前に広がる光景は、絵に描いたように美しいパノラマの夜景だ。
「わっ……豪華っ……!」
健太に手を引かれ窓際に行き、彼と向かい合わせになった。
軽く腰を抱かれ、正面からじっと見つめられる。身長が百七十センチある志穂だが、ハイヒールを履いてもなお、目線の高さが十センチ近く違う事に改めて気づかされた。
(健太って、こんなに背が高かった? それに、なんだかものすごく「男」の色気を感じる……)
ほんの数十分前までは、ただの幼馴染だった。けれど、今の彼は志穂が今まで知らなかった一面を見せ始めている。
「どうだ? 気に入ったか?」
「う……うん、もちろん。だけど、スイートルームに来るのってはじめてだから、びっくりして何がなんだかわからないって感じかな」
「そうか。必要なものはぜんぶ手配したし、ゆっくり寛げばいいよ」
健太に言われ、志穂はツーピースのジャケットを脱いだ。それを受け取った彼は、部屋の入口近くにあるクローゼットに向かって歩いていく。
「ここって、今いる部屋だけでも通ってた中学校の図書室と同じくらい広いよね。健太って、いつもこんなとこに泊まってるの?」
「ははっ、ずいぶんローカルな例え方だな。いつもじゃないけど、たまに使わせてもらってるよ」
健太が軽やかな笑い声を上げながらスーツのジャケットを脱ぎ、襟元のネクタイを緩めた。そのしぐさが、やけにセクシーに見えて胸がドキッとする。
「ふぅん。それって、やっぱり恋人と、って事だよね?」
「いや、泊まる時はいつも俺一人だ」
「一人で? 何のために?」
「別に何をするわけじゃなくて、ちょっと環境を変えてゆっくりしたい時にここに来るんだ。泊まるのはだいたい週末の二日間かな。気が向けばジムに行ったりプールで泳いだり……。これでも結構仕事が忙しくてね。まあ、言ってみれば息抜きをしに来るっていう感じかな」
そばに来た健太が、窓の外を眺めながら前髪を掻き上げた。そんなさりげないしぐさに、やけに心惹かれる。
「息抜きでスイートルームに泊まるんだ……。さすがエリート弁護士……っていうか、健太って私が思っている以上にリッチなんだね」
「リッチかどうかは別にして、多少不労所得もあったりするし実のところ一生遊び暮らすには困らない程度の貯えがあるんだ」
「はあ?」
健太の実家は代々法曹界で活躍しており、一般家庭よりかなり裕福なのは知っていた。それに加えて、彼は十代の頃から株の売買や投資などで個人資産を築いていたという。
「一生遊び暮らせるくらいの金額って相当だよね? いったいいつその域に達してたの?」
「二年くらい前かな」
思い返してみれば彼はいつも仕立てのいいスーツを着ているし、今住んでいるマンションも一括購入したと聞いた。常に紳士然としているし、それもこれもゆとりある生活スタイルが確立しているからこそなのだろう。
「弁護士をしながら投資家としても成功するなんて……。すごい……忙しいのに、本職以外の勉強までしてたなんて知らなかった」
「資産形成については、高校の時から地道に学習を続けてきたんだ。だけど、これについてはほとんど趣味みたいなもんだから、まったく苦にはならなかったな」
「それでも、すごいよ。健太って昔から努力家だったもんね。それは私が一番よく知って――んっ、ん、んっ……」
話している唇をキスで塞がれ、背中と腰を強く抱き寄せられた。
すぐに入ってきた熱い舌が、志穂の口腔を丹念にまさぐる。舌の根をくすぐられ、思わず腰が砕けた。ずり下がる身体を抱き止められ、そのまま身体が仰向けになって宙に浮かんだ。
「きゃあっ! け、け、健太っ?」
人生初の「お姫様抱っこ」に驚き、志穂は目を丸くして声を上げる。
「な、何してんの? お、重いでしょ? 早く下ろして――」
「重くないし、むしろ羽のように軽いよ」
「は? さすがにそれは嘘っ!」
「ははっ、バレたか。まあいい。雑談はこのくらいにして、とりあえずベッドに行こう」
「ベ、ベッド⁉」
すでに歩き出している健太とともに部屋を出て、ゆったりとした廊下を右方向に進む。開け放たれたままのドアの向こうに見えるのは、さっきとは別角度の夜景を背景にしたキングサイズのベッドだ。
「健太……これってまさか……わ、私と……セッ……セッ……」
「セックス、って言いたいのか? 恋人同士なんだから、それくらい普通だろ?」
あっという間にベッドの上に押し倒され、上からじっと見据えられる。
「俺とセックスするの、イヤか? そうなら遠慮なくそう言え。それがルールだし、志穂が同意しないなら、朝までキスだけで我慢するよ」
「が、我慢って……。ちょっと待って! もしかしてだけど、健太は私とセックスしたいの?」
「もちろんだ。当たり前だろ」
「あ……当たり前……? な、なんで……今までそんなふうに言った事ないのに……」
「今まではそうでも、これからはそうじゃない。志穂はいい女だし、俺は志穂に対して特別な感情を抱いてる――」
「と、特別……?」
話す声がだんだんと低くなり、ゆっくりと唇が重なる。唇の内側を舌先でなぞられ、背中がベッドから浮き上がった。
「だって俺達は今、恋人同士だろ? つまり、二人は愛し合っていて、キスはもちろんセックスだってしたくてたまらない状態にある。少なくとも俺はそうだ――」
話の途中で当たり前のように何度となく唇が重なり、だんだんとそうしている時間が長くなる。呼吸が乱れ、頭のてっぺんがジィンと痺れてきた。
そうだ――。
自分達は今、きちんとルールを決めた上で「恋人ごっこ」をしている。
彼が言う特別な感情は「恋人ごっこ」をする上で生じたものであり、リアルではない。
しかしながら、ルールその三、思ったり感じたりした事は正直に伝え合う――それを踏まえて考えると、健太は本気で自分とセックスをしたいと思っているはずだ。
――という事は……?
考えるも、頭が混乱してどれが本当でどれがそうではないのか、わからなくなってしまった。
「んっ……ぁ……」
キスが首筋を下りて鎖骨の上で止まる。ブラウスの襟ぐりをなぞるように舌を這わされ、全身の肌が熱くざわめく。
漏れた吐息がやけに甘ったるいし、自分が今性的な興奮状態であるのは明らかだ。その証拠に、もうすでに健太のキスを自分から求めてしまっている。
「志穂……イヤなら遠慮せずに、そう言ってくれ。そうじゃないと、志穂も俺と同じ気持ちだと解釈するぞ」