第三話
著作 有允ひろみ Illustration きらた
第3話
「だったら、特定の相手ができるまで、私と臨時で付き合ってくれないかな?」
「臨時で?」
「そう。つまり、お互いに好きな人ができるまでの期間限定の恋人というか、恋愛脳が錆びつかないように疑似恋愛をしましょうっていうか……」
思いついたまま口にしたはいいが、話しながら急に恥ずかしくなってきた。
とびきりの美人ならともかく、イケメン弁護士の恋人を務めるのに自分ではあまりにも不釣り合いだ。
「な……なぁんて、今のナシ! ちょっと思いついただけだったし、いくらなんでも私と健太が恋人とか――」
「いいよ」
「えっ?」
「だから、いいよ」
「い、いいの? 本当に?」
あっさり承諾され、志穂は目を丸くして健太を見た。
「そうする事が志穂のしあわせに繋がるなら、喜んで引き受けるよ。そういえば、俺達がまだ幼稚園に通ってた頃『恋人ごっこ』っていう遊びが流行った事があったよな。覚えてるか?」
「『恋人ごっこ』? ……ああ、確かに一時期流行ってたね。仲良し同士が手を繋いだり手紙のやりとりをしたり――そんな感じだったよね?」
志穂が訊ねると、健太が頷いて同意する。
「ああ、そうだ。だから、さっきの提案はその大人バージョンのようなものだと思えばいい。俺と志穂ならお互いに気心も知れてるし、気楽な感じで取り組めるんじゃないかな」
「言われてみれば、恋愛中って、あれこれ考えすぎて言いたい事も言えずじまいになる事ばっかりだったかも……。だけど、健太が相手なら自然体でいられるし、遠慮なく言ったり聞いたりできそう」
誰かと恋愛をすると、途端に相手との関係性が著しく変化する。
少なくとも志穂はそうだし、そのせいで言葉や態度に表せなかった感情が多くあった。それが心残りと言えばそうだし、伝えられていたらもっと早く不適切な関係を終わらせられていただろうと思う。
「そうだろう? もちろんなんでもかんでも言えばいいってわけじゃないけど、言うべき事は言えるようにしたほうがいい。そういう改善点を『恋人ごっこ』で実践すれば、いい感じで矯正できるんじゃないかな。言うなれば、理想的な恋愛を実践して、これまでの恋愛でついた悪い癖を治すつもりで」
「なるほどね……。うん、なんとなくビジョンが見えてきた。これから健太と恋人として付き合いながら、恋愛を学び直す、って事ね」
健太が微笑みながら頷き、志穂もそれを見て表情をぱあっと明るくする。
「じゃあ、それで決まり! 健太が一緒なら、きっと成功する。ああ、よかった~。なんだか気持ちが軽くなった感じ! それに、これで当面は夜中にふと目が覚めて『さみしい』なんて呟く事もなくなるかも」
志穂はニコニコ顔で、カクテルを飲み干した。疑似とはいえ、恋人がいると思うと自然と頬が緩んできたのだ。
「志穂……。おまえ、そんなにさみしい思いをしていたのか?」
しみじみとそう言われ、志穂は片方の眉尻を吊り上げた。
「そ、そりゃあまあ……私だっていろいろあるのよ。職場では中途半端な立ち位置で、しかも今ちょっと部署内の仕事がうまく回ってないの。そのせいで皆気持ちに余裕なくなってピリピリしてきちゃってて。私がもう少しうまく立ち回れたらいいんだけど――」
志穂は高校卒業後、都内の女子大学に進学して服飾について学んだ。卒業後は新卒でアパレルメーカーの「ホライゾン」に総合職枠で入社し、最初の約一年間はジョブローテーションで様々な職種を経験した。
営業の一環として都内の直営店で販売員として活躍した事もあるが、三年前に総務部に配属されて今に至っている。
去年主任に昇格した志穂は、いわゆる中間管理職になった。その結果以前にも増して多忙になったのに加えて、他部署に異動した者の業務まで任されてしまったのだ。
「仕事はさておき、プライベートはまるで充実してないし気がつけば女友達は皆リア充だし。さすがに人恋しくもなるし、最近はいつも心に隙間風が吹きまくってる感じなのよ」
「会社によさそうな人はいないのか?」
「うーん……いい人はたくさんいるけど、恋愛対象にはならないかな。仮に私がよくても、向こうがイヤだろうし……」
「どうしてイヤなんだ?」
「だって、男の人ってたいてい女性らしくて可愛い人を好むでしょ? だけど、私は見てのとおりの高身長で見た目もこんな感じだもの。それに、お呼びがかかれば脚立を担いで社内をうろつくし、一年の大半はパンツスタイルでぜんぜん女らしくないし」
「ホライゾン」には制服がなく、基本的に服装は自由だ。常識の範囲内であれば髪型やネイルも自分の好きなようにできるし、誰も文句を言わない。
アパレル業界らしく本社にはセンスのいい男女が多く、それぞれに自分に合ったファッションを楽しんでいる。
志穂もそうしてはいるが、如何せん総務の仕事はデスクワークだけではない。
配線のチェックをするために床を這いつくばる時もあれば、切れた照明器具の取り換えのために脚立の上にのぼる事だってあった。
つまり、スカートを穿いていると都合が悪い業務が多くあるため、どうしてもボーイッシュなファッションになりがちなのだ。
「ふぅん。俺は似合っていれば何でもいいと思うけどな」
「そりゃそうなんだけど、男の人にしてみれば、脚立を持って社内を闊歩する大女より、女らしい恰好をした可愛い女性のほうがいいに決まってるでしょ」
「勇ましくていいじゃないか。それに、外見より中身だろ」
「そう言ってくれるのは健太くらいのものだよ」
心優しい幼馴染は、いつだって志穂の味方だ。
けれど、人には誰しも本音と建前というものがある。彼はまれにみる正直な人だが、相手を気遣ってつく優しい嘘なら許容範囲なのだろう。
「オフタイムに出会いを求めようにも、そうする暇も気力もないし。つくづく縁遠いって思うし、仮に出会ってもまたハズレ男の可能性大だし……」
我が身の現状を訥々(とつとつ)と語る志穂の肩を、健太がポンと叩いた。
「なるほど。志穂の気持ちはわかった。要は今の味気ない生活から脱したいって事だろ? やるか大人の『恋人ごっこ』。その前に、きちんとルールを決めないとな。言っておくけど、やるからには中途半端なやり方はしないぞ」
「望むところよ」
志穂は身を乗り出し、拳を握りしめる。
話し合いの結果、決め事が三つできた。
ルールその一、普通の恋人同士がする事は何でもトライしてみる。
ルールその二、ただし、何をするにしても双方合意しなければならない。
ルールその三、思ったり感じたりした事は正直に伝え合う。
あとは、随時話し合って決めるとして、とりあえずスタートさせる事になった。
「特に、ルールその三は厳守しよう。お互いの気持ちに無理が生じたら即止めって事で。私と健太の仲だし、遠慮とか変な気遣いはナシでね」
「わかった。それじゃ、今から俺達は恋人同士だ。それらしく、キスで疑似恋愛をスタートさせようか」
「いいわよ」
いつもと変わらない調子でそう言われ、さほど考えずに同意をした。てっきり触れ合う程度のキスだと思ったのに、気がつけば肩を抱き寄せられ、唇がぴったりと重なり合っていた。
「……んっ……」
瞬く間に心臓が跳ねあがり、瞳孔が開いた。
健太の舌が志穂の唇の隙間から口の中に入ってくる。二人の舌が触れ合い、僅かに絡み合う。
(……甘い……)
志穂がそう感じた時、小さなリップ音がして唇が離れた。
少なくとも三十秒はキスをしていたと思う。太陽が降り注ぐ昼間なら、どうにか笑い飛ばす事もできたかもしれない。
だが、この場のロマンチックなシチュエーションのせいもあるのか、志穂は唇が離れても目を閉じたまま久々に味わうキスの余韻に浸っていた。
「志穂」
いつもより低い声で名前を呼ばれ、志穂はハッとして目を瞬かせた。こちらを見つめてくる健太の顔には、いつになく男性的な微笑みが浮かんでいる。
「ここじゃ人目もあるし、場所を変えよう。少し待ってて」
健太がそう言い残して席を離れ、店の入口のほうに向かって歩いていく。
志穂は窓に映る彼の背中を見送りながら、舌先で唇をなぞった。
(今の、何……? キス……健太とキス、しちゃった……)
疑似とはいえ、普通の恋人同士がする事は何でもトライしてみると決めた。何をするにしても双方合意しなければならないが、これもクリアしている。
今のキスは、何の問題もない。
けれど、よもやあれほどディープなキスになるとは思いもしなかった。心臓は早鐘を打っているし、頬ばかりか今や身体中がじんわりと火照っている。
こんなふうになっているのは、酔っているせいだろうか?
二人のアルコール耐性はほぼ同じだし、お互いに今夜はいつもよりハイペースで飲み進めていた。
(だとしたら、健太もいい感じで酔ってるよね? さっきのキス……かなり本気モードだったような……)
「恋人ごっこ」の言い出しっぺは志穂だが、実際にキスを仕掛けてきたのは健太だし、口の中に舌を入れてきたのも彼だ。
志穂は舌先で口の中を探り、たった今味わったばかりの健太とのキスを頭の中で反芻する。
(健太ったら、いつの間にか「男」になっちゃって……。あんなにキスが上手だなんて知らなかった……)
思い返してみれば、自分の事を話すばかりで、これまで健太自身の恋愛については詳しく聞いた事がなかった。