異世界で就職したら、花嫁として溺愛されました!?
著作 みなせ遊砂 Illustration 蘭 蒼史
第3話
ふう、と吐息を漏らしながら、ここも乾いた泥だらけと思われるベンチに座った。
泥の水玉模様が描かれたドロワーズを、今更汚れてはいけないなどと気にする必要もない。
風は涼しい。泥に濡れた場所だけひんやりと冷たく感じた。
(よくこんなところまで裸足で歩いてきたもんだわ)
どうしてここまでやれたのか。
七日間の待ちぼうけのイライラからか、自分に呆れながら夫となる男に少し期待していると、農夫がエヴァンジェリンの命令も耳に入っていないのか、隣で棒立ちになっている。
「ちょっと、早くわたしの夫になる男を連れて来なさいよ」
農夫はじっとエヴァンジェリンを見て、にぃと笑って「アタリ」と言った。
「……『アタリ』ですって?」
意味不明だ。
困惑して眉を潜めているエヴァンジェリンを、農夫は軽々と肩に担いだ。
「ちょ……っ! 何すんのよ、わたしの言うこと聞いてた? 誰が運べって言ったのよ、わたしは『旦那を連れてこい』って言ったの! ねぇっ、聞いてるの?」
びちゃびちゃと音を立てるもスムーズに歩く農夫の作る振動を、腹だけで受け止めるのは至難の業だった。
ここは、エヴァンジェリンにとって初めての土地だ。
初めての土地で泥だらけになりながら歩きまくった末に出会ったのが、わけのわからない農夫で、今その肩に担がれている。
酷すぎる。
実家に帰りたい。……帰れるものなら。
農夫は目的地にたどり着いたようだ。エヴァンジェリンを肩から降ろして、じっと顔を見つめて「アタリだ」ともう一度にい、とわらった。
(意味不明で、幾らハンサムでも気持ち悪いんだけど)
びゅう、と風が吹いて、エヴァンジェリンの髪を揺らした。
泥の水玉模様のできた白い手で髪を押さえ、自然と伏目がちになっていた目をゆっくりと瞬かせる。
「……湖?」
わかったのはそれだけだ。
月明かりが、風に揺れる小さな波に反射して、きらきらと光っている。それもかなり巨大な湖だ。対岸が見えない。
船で乗り入れてきた誰かが、海かと勘違いするだろうほどに。
それよりも、とエヴァンジェリンは農夫を見上げた。
エヴァンジェリンが小柄な上、農夫が長身のため、顔を見るには見上げるしかないのが、なんだか腹が立つ。
農夫はつい、と泥だらけの大きなハンカチをエヴァンジェリンの耳から口元まで、ぎっちりと結びつけた。
何のまねだ、と声を出そうにも出せそうにない。見ると、農夫も同じように鼻と口をハンカチで覆い、両耳できゅっと結びつけていた。
(何が始まるって言うの……まさか旦那さまは見えない対岸にいるってんじゃないでしょうね?)
真っ暗な湖を船で渡る? それこそぞっとする。
実家に、いやどこか遠くに行きたい……。
農夫がピューと口笛を吹いた。
口を封じられているのに、よく音が届くものだ。
何かを呼んでいるらしい。
湖がざわざわとさざめきだした。
びょう、と風が吹き、吹きあがった湖水が雨となって降ってきた。
両腕で水をかぶらないように防御しているつもりが、最終的には波となった湖水に飲み込まれそうになると、水の中で両腕を掴まれた。波が去った。
「ちょっと! いったい何をやってるの! 早くくそやろうに会わせなさいよ! さっきからそう言ってるでしょ!」
まったく! とびしょびしょに濡れた服をしぼっていると、目の前に、大きな影がかぶさっているのに気づいた。
巨大だと思った湖を狭そうにしている化け物の姿がそこにあった。
(ぎゃあああああああ!)
声に出せない声が心の中だけで、わんわん響き続ける。
その化け物は全長百メートル、飛行機並みだ。
蛇のような形で色は、ネズミ色。
固そうな肌をしている。
口は掃除機のようで、その内側すべてに尖った歯を持っている。
両眼は虫と同じ複眼のようで、それらは赤く燃えているように見えた。
がくがくと震えるエヴァンジェリンの膝は五秒程度しか保てず、がくんとその場所に尻もちをついた。
農夫はというとその化け物の頬(?)を撫で、死んでいるであろう豚をまるごと、次々に掃除機の口へ放り込んでいった。
豚一頭を幾つも繰り返し投げ入れる農夫の腕力にも驚いたが、この化け物をやすやすと飼いならしていること自体が異様だった。
「メスターストゥアームという竜だ。名前はジュリア。可愛いだろう。昔は毎日乙女を一人ずつ食べさせたらしいんだけど、ジュリアは豚で満足している。健気だと思わないかい?」
にっこり笑って言う農夫の声が異様だ。
『乙女を毎日食わせていた』……まさか花嫁がいなくなったのは、この化け物のせいでは……。
いやいや、花嫁は皆王都に帰ってきている。
『花婿は顔も見せなかった』と怒って。ということは花嫁は餌にされたわけではない。
それに比べて自分は牧場まで来てしまって、今目の前に掃除機の化け物がいる。
確かにまだ『花婿の顔を見ていない』。
この状況で食われたら、永遠に顔を見ないまま、深遠に突き落とされる。
豚に満足したらしい掃除機の化け物は、またざぶりと雨を降らしながら、湖に戻っていった。
泥臭い上に豚の臭いまで手にのせた農夫の手が、自分の手巾を取り、エヴァンジェリンの口元の手巾も取ってくれた。髪にからまないように、細心の注意を指の動きからうかがえた。
「苦しかったか? 悪いな。ジュリアは毒の息を吐くから、吸い込むと死んじゃうからね」
物騒なことをさらっと言ってのける。
「なんって……、物騒なもんを、城の湖に飼ってるのよ?」
湖といえば舟遊び。バニスター家ではそれが日常だった。
その前は……いやいや、それは考えまい。
今度は空が騒がしくなった。
ぎゃあぎゃあと聞こえる……鳥?
月明りを背景に『鳥』はどんどん大きくなって、こちらはほぼ十メートル。
二本の足があり、鳥のような形をしている。
だが顔は竜だ。
それも十匹ほどが、物凄い風を起こしながら、恐ろしく大きな止まり棒に止まっている。
着地してもまだぎゃあぎゃあと喋り(?)続けている。
「ワイバーンだ。軽くて空を飛べる。人も乗ることができる」
(プテラノドン? 飛ぶ竜……飛竜ってことでいいかしらね)
掃除機の化け物を見たあとでの飛竜は、ハードルが低い。
今度は(多分)死んだ鶏の肉を投げると、飛竜は喜んで集まってきた。
鶏が好きなのか、咀嚼すると一匹ずつ農夫の手に触れていった。腹がいっぱいになったのだろう。止まり木に止まって、うとうととしている。
エヴァンジェリンはさっき掃除機の化物を見て尻餅をついたままの姿で、月明かりを背景に、にぃっと笑う農夫を見た。
「俺がこの城の主、くそやろうこと、レイフ・カートライトだ。おまえは? 俺に何の用があってこんなところにまで来たの?」