異世界で就職したら、花嫁として溺愛されました!?
著作 みなせ遊砂 Illustration 蘭 蒼史
第2話
第一章
くそやろう。
ウェディングドレス風の純白のドレスをドロワーズにぱんぱんにつめ込んだエヴァンジェリン・バニスターは、足首までつかるぬかるみの中を、ずんずん歩いていた。
(冷たくて、気持ち悪い感触。たまに踏む小石は痛いし、最っ低っ!)
月の光がやたらと眩しい。今日は満月だったろうか。
ゆるゆると落ちてくる月光のおかげで自分がどこを歩いているのか見当がつきそうなものだが、目の前に広がる光景は、泥の道が長く続いているだけ。進んでいるのかいないのか、それさえも計りかねている。
歩く道の左右で、名前も知らない木々が不気味な歌を歌うようにざわざわと風に揺れた。
最初は並木道にでもする予定だったのだろうか。
それにしては世話が雑すぎるようにも見える。
(ここの城主はいったい何を考えて、こんな場所を作ったのかしら)
足が重い。
メイドのフィオナが即席で作ってくれた麻の長靴を履いてはいたものの、泥が中に入ってきて、脚を濡らし、びちゃびちゃと音を立てている。
感触は最悪だ。
数時間前、城から送り出してくれた彼女の呆れ顔が頭をよぎる。
エヴァンジェリンつきのメイドだと名乗った女、フィオナ。
つややかな髪を一つにまとめて美しく、顔の作りは中ほどのように感じた。
そのうち嫁にでも出るんだろうかと、一週間しかいなかったのにさみしげに感じた。
「花嫁さまが旦那さまの離れに行かれるなんて、聞いたことがありません。他の花嫁さまもおとなしく部屋でお待ちになっていたんですよ!」
エヴァンジェリンが城を出ていくのを止めた、彼女の声が去来する。
『他の花嫁さま』──!
なんという単語だろうか。
ここの城主は以前にも何人も花嫁を迎えているという事実にも吃驚(びっくり)だが、誰一人として残らなかったという話にも驚きだ。
大量の花嫁がやって来て、大量に去っていく。
一体どんな人格を持ち合わせていたら、そんなことが起こってしまうのか。
よっぽど気難しいのか、それとも生理的に無理とかいうアレな感じなのか。
そんな男にこれから会おうとしている自分も馬鹿なのかもしれない。
エヴァンジェリンは頭をくらくらさせながら、金色のふわふわの髪を掻いた。
「それでその花嫁さま方は、城主にほったらかされて実家に帰ったんでしょう? どうでもいいから、わたしはその旦那という、くそやろうに会いに行くわ」
ではせめて、と即席で長靴を作ってくれたものの……。
泥の中に足を入れてまた、引き上げる。
その足はほとんど素足で、泥の下にある何かわからない固いものを踏んでいる感覚もあった。
(足の裏に何か刺さらなきゃいいんだけど)
その片脚を泥から引っこ抜いて、エヴァンジェリンが牧場の戸を蹴破る。
相当手入れされていなかったのか、その一撃で牧場の戸は飛んでいって砕けた音がした。
城の影になっていて辺りは暗く、どこへいったのか皆目見当がつかない。
(どこへ飛んでいっても構わないのだけれど)
その後も同じだ。びちゃびちゃ音を立てながら進んでいく。
月明かりに照らされたドロワーズには泥が跳ね、腰まで黒い大小の水玉模様を作り出していた。
(だいたい、なんで花嫁が待っている城に帰ってこない、あのくそやろうのために、ウェディングドレスを七日も着てなくちゃならないの?)
初老のミズ・クリスティが、メガネのつるに手入れの行き届いた光る指先を添えて、『それが花嫁でいらっしゃるということですよ』と諭すかのように、まったく無意味なことを言っていた。
花嫁候補であるがゆえに、顔さえ見に来ない男を待って待って待ち続ける?
本当に無意味だ、時間の無駄だ。
そして結果、主が変人と呼ばれてもいいのか?
ともすると、こんな山奥にいるがためにそんな噂が立っていることすら、本人は知らないのかもしれない。
「花嫁を一週間も放り出して何やってんの? もう実家に帰らせていたただくわよ、旦那さま! 普通の令嬢ならね!」
扉を蹴破ってからすぐ農夫が立っているのが見えた。
ようやく人に会えたとホッとすると同時に怒りが湧いてきた。
この沼地は、やたらに広すぎるし、人がいなさすぎる。
とにもかくにも、エヴァンジェリンはこれまで唯一出会ったその男に声をかけてみることにした。
「ちょっと! そこの人! この城の旦那さまとやらは──」
叫びを終える前に、深い泥の中にも関わらず、農夫は素早く近づいていた。
──にゃーん……
(猫の鳴き声?)
きょろきょろと周りを振り返るも、それらしい子はいない。気のせいか。
エヴァンジェリンと農夫の歩き方は雲泥の差だ。相当この場所に慣れているのだろう。
かなり嬉しそうな顔をして、エヴァンジェリンを見ている。
月明かりでもわかるほど。
顔色はうっすらと赤く、半開きになった口元は、歓喜に緩んでいた。
(初めてここまでやってきた花嫁に感動しているのかしらね!)
鼻息荒く、得意げにほほ笑んでいるエヴァンジェリンに、男はとんでもないことを言った。
「ララナ! ああ、ララナが本当に来たんだ!」
(……はぁ?)
ララナ……って誰よ?
変人主の下僕は変人なのね、と独りごちていると、唐突に、更に近づいてくる彼は泥だらけの両手を伸ばしてきた。
「ひっ……?」
エヴァンジェリンの金色のふわふわした髪や細い首、細い腕、ふくらんだ胸、くびれた腰、脚、と順に触っていく。
おかげで男が触り終わった場所はすべて泥だらけだ。
男は非常に満足そうに、目に涙を浮かべて「ララナ……ララナは本当に来たんだ……」と呟いていて、呆気に取られていたエヴァンジェリンは、はっと我に返った。
歓喜の涙に打ち震える男の横っ面を、男と同じく泥だらけの手で音が響くほど引っぱたいた。
「ちょっとあんた! 勝手に人の体べちゃべちゃ触んないでよ! この変態くそやろう! わたしの姿を見なさいよ、きったない泥だらけじゃないの、まったく……」
引っぱたかれた男は、突然衝撃の走った頬を、その泥だらけの手で撫でている。
「だいたいララナって何? なんなのよ? 変な城主の部下って、やっぱり変なのかしらね」
エヴァンジェリンは相手の顔を改めて見た。
黒髪に藍色の目。
艶のある髪を短くして、藍色の目が月明かりに反射していた。
綺麗なのは顔の作りだけで、あとは全身泥だらけだ。
長身でしっかりした体躯。絶対に、殴り合いまでもちこんではいけないタイプだ。
それにしても。
(意外とハンサムだわ)
こほん。
自分の現金さに呆れてから、一つ、小さな咳払いをする。
「わたしは、エヴァンジェリン・バニスター。歩くの疲れたから、城の主とやらをここに連れてきてちょうだい」