第4話
銀狼帝の愛囚~復讐の姫は淫蜜にまみれて~
著作:麻倉とわ Illustration:南香かをり
第4話
シルベストルはさっそく侍女が運んできたカットグラスを差し出した。中の液体は金色で、甘い香りがする。
「あ、あの」
悲壮な覚悟を決めてきたはずなのに、セラフィーナの心が大きく揺れた。
「いろいろお気遣いをいただいて申しわけございません、陛下。もっとしっかりしなければいけないのに」
「これくらい何でもない。疲れている君に無理をさせてしまうのだからな。それでも愛らしい皇后をひと目見たいと、大勢の民が待っている。なんとか笑顔を見せてやってほしい」
「かしこまりました」
グラスを口に運ぶと、爽やかな甘みが口中に広がった。
(……おいしい)
やはり疲労がたまっているのだろう、身体だけでなく心にも。喉が渇いていることにさえ気づいていなかったのだから。
これから皇帝夫妻は四頭立ての馬車に乗って、王都の大通りを走ることになっていた。続いて宮殿で祝宴が開かれ、長い夜会の後に、二人だけの時間が訪れる。その時にこそ、待ち焦がれている機会が訪れるはずだ。
そう、セラフィーナの目的はただひとつ。シルベストルを殺めて、亡き従姉の復讐を果たすことだった。
けれども果たしてこの人に刃を向けることができるだろうか? たとえそれが他ならぬチェチーリアのためだとしても。
(いいえ、騙されてはだめ! チェチーリア姉様がここでどんな目に遭われたか思い出すのよ)
セラフィーナは唇を引き結び、膝の上に置いた手を見つめた。
(彼の中には狼がいるのだから)
シルベストルが獣人と呼ばれるレマンツェでも稀有な血筋で、それゆえに尊ばれていることや、たまに狼の姿に変わることはもともと知っていた。だからこそチェチーリアは彼との結婚をためらったのだから。
五年前に、セラフィーナもその事実を確認している。
当時は皇太子だった彼が許婚のチェチーリアに会うため、側近と共にダンゼーレを訪れた時のことだ。従姉の不安を解消したくて、実際にシルベストル本人と話をしてみたのだ。
結果、狼に変貌することは彼自身が認めた。最近はあまり姿を変えないとつけ加えはしたものの、はっきり肯定したのだ。
その告白に、当時のセラフィーナはずいぶん驚いた。それでも不思議に恐怖を感じなかったことは覚えている。
率直に答えてくれたことがうれしくて、変身した姿を見てみたいとさえ思った。狼に変わるとしたら、とても美しいに違いないと考えたのだ。
さらにシルベストルは、狼でいる時はあまり記憶がないとも言っていた。けれどもごくまれに凶暴になって、人を襲うような不測の事態を起こすかもしれないことまでは教えてくれなかった。
(だからチェチーリア姉様はあんなことに――)
目の前にいる皇帝は自国の民を思い、嫁いできたばかりの皇后を気遣う心優しい人にしか見えない。
ところが何の罪もないチェチーリアは彼の牙で喉を引き裂かれ、命を落とした――少なくともセラフィーナはそう知らされたのだ。もちろん自分の目で確かめたわけではないけれど、確固たる証拠もある。
そんな相手を許すことなどできるはずがなかった。従姉は熟慮の末、シルベストルのよき妻になり、両国の緊張関係を和らげたいと言って、笑顔で嫁いでいったのだから。
どんなことをしてでも、自分がその無念を晴らさなければ。
セラフィーナはゆっくり立ち上がると、懸命に笑顔を作った。警戒されないよう、努めて明るい声で礼を言う。
「どうもありがとうございます、陛下。おいしいりんご水のおかげで、だいぶ落ち着きました。もう大丈夫ですわ」
瞬間、金茶色の瞳が見開かれた。暗がりから急に明るい場所に出た時のように、シルベストルは何度も目をしばたたいている。
「どうかなさいましたか、陛下?」
「あ、いや。何でも――」
一度はかぶりを振ったものの、シルベストルは少しためらってから、思いがけないことを口にした。
「今、チェチーリアを思い出した」
「えっ?」
「笑った顔が……よく似ている」
意外なひとことに、セラフィーナの笑顔が凍りつく。
彼の口から従姉の名前が出てくるなんて思いもしなかった、しかもその声音は、大切な思い出を懐かしむように優しかったのだ。
シルベストルは彼女を惨殺した張本人なのに――。
(どういうこと? 少しも覚えていないの、自分がしたことを?)
うろたえるあまり、セラフィーナは返す言葉も見つからない。
しかし幸いシルベストルがそんな様子に気づいた様子はなかった。
「やはり従姉妹同士なのだな。髪や目の色も顔立ちも違っていると思っていたが……そんなふうに笑うと、チェチーリアにそっくりだ」
確かに漆黒の髪と菫(すみれ)色の瞳を持ち、妖精のようにかわいらしいと称されるセラフィーナに対して、従姉の髪はきれいな鳶(とび)色で、瞳も青に近かった。
前国王夫妻の忘れ形見であるチェチーリアは聖母のように美しい人で、後を継いだ現国王には姪に当たる。だがセラフィーナにとっては従姉というより、実の姉のように慕わしい存在だった。
それからシルベストルはひとりごとのように、「ようやく笑ってくれたな」と呟いた。
「えっ?」
「ずっと緊張していたのだろう? レマンツェに来てから、初めて笑顔を見せてくれた」
セラフィーナに向けられる視線はどこまでも真っ直ぐだった。
「だが、どうか安心してほしい。レマンツェのすべての民が君を歓迎している。それに――」
月光にも似たプラチナブロンド、琥珀のような金茶色の瞳、古代の剣闘士を思わせる鍛え上げられた身体と精悍な面差し――目前に立つ長身の皇帝はまばゆいばかりに美しい。婚礼のための最礼装は真珠色の軍服だった。
初めて会った時にもその美貌に目を奪われたが、時を経て堂々たる風格と侵しがたい気品を身に着けたシルベストルに、セラフィーナはただ圧倒されていた。
「心から感謝している、セラフィーナ、こうして私のもとへ嫁いできてくれて」
「……陛下」
「チェチーリアのことがあったのに……いや、それ以前に私は……ふつうの人間ではないと知っているのに」
シルベストルは絹の手袋に包まれた両の手をそっと握った。
「今からはシルベストルと呼んでくれ、どうか以前のように」
「シル……ベストルと?」
「そうだ。君はもう私の妻になったのだから」
セラフィーナは半ば呆然としながら、結婚したばかりの夫を見つめる。
時計が逆回転するように、過去へと運ばれていくような気がした。
――待って、シルベストル様。ねえ、待って!
そう、確かにあのころのセラフィーナは彼を名前で呼んでいた。最初のうちこそはにかんでいたが、次第に慣れて、その後をついて回ってもいた。優しい皇太子が大好きだったから。
暗い秘密も恨みも知らなかった五年前、十四の自分はシルベストルに対して、ただ純粋な驚きと憧ればかりを抱いていた。獣人がいったいどういうものなのか、全然わかっていなかったのだ。
(今は違うわ。違うはずなのに――)
彼への思慕には、きっぱりけりをつけたはずだった。それなのに今、まるで荒波に投げ込まれたように身も心も激しく揺さぶられている気がした。
どうしてシルベストルはこんなに一途で優しい瞳をしているのだろう? まるで後ろめたいことなどひとつもないみたいに。いかにも皇帝にふさわしい堂々たる姿をしていても、その内面は以前と少しも変わっていないかのように。