第1話
銀狼帝の愛囚~復讐の姫は淫蜜にまみれて~
著作:麻倉とわ Illustration:南香かをり
第1話
序章
夜半、静まりかえった室内には穏やかな寝息が響いていた。
繻子(しゅす)の天蓋に覆われた広い寝台に横たわっているのは二人――ほっそりした黒髪の娘と、戦士のように鍛え上げられた身体つきの青年だ。
ふと娘がかすかに身じろぎをして、目を開いた。仰臥したまま、菫(すみれ)色の瞳だけを動かし、青年の様子をうかがう。
蝋燭の揺らめく明かりが、月光のようなプラチナブロンドの髪を照らし出した。その横顔は何度見ても、息を呑むほど美しい。
(よかった。よく眠っておられるようだわ)
娘の名はセラフィーナ――このレマンツェ帝国の皇后になるべく、数日前に嫁いできたばかりだ。
その隣で精悍な寝顔を見せているのは、若き皇帝シルベストル。眠りが深いのか唇を引き結び、微動だにしない。
たとえるならば太陽神と愛の女神。まるで古代の神話から抜け出してきたように美しい二人だが、セラフィーナの白い顔には戸惑いと怯えの色が浮かんでいた。
(今なら――)
セラフィーナは小さく息を吸い、そっと起き上がった。
先ほどまでシルベストルの雄芯を受け入れていた身体はひどく重い。それでも行動を起こすなら、彼が眠っている今しかなかった。
隙を見て寝酒に薬を混ぜ入れたのは、二時間ほど前のこと――調合したのは祖国の王家に仕える薬師で、危急の場合に使うために持ってきたものだ。その効き目は、どんな大男でもたちどころに寝入ってしまうくらい強力なはずだった。
ところがシルベストルは今夜も、嫁いできたばかりの皇后をいつものように犯し続けた。幼いころから薬に身体を慣らしてきたセラフィーナでさえ、危うく眠ってしまいそうな量だったし、口にするところも確かに見届けたはずなのに。
しかしさすがに強力な薬効に抗い抜くことはできなかったらしい。新妻を何度も絶頂まで追い上げながらも、シルベストル自身は達しないままで寝入ってしまったのだ。
「シルベストル……あの、シルベストル様? 陛下?」
何度か呼びかけても、やはり反応はない。つい寝顔に見とれてしまいながらも、無理に視線を外して、そっと身を起こした。
(急がなければ)
セラフィーナは寝台から下り、肌を合わせる前に剥ぎ取られた寝衣を身にまとう。大理石の床は冷たかったが、かまわず裸足のまま歩き始めた。
セラフィーナが目指していたのは、広いバルコニーへと続く観音開きの大きな窓だ。
(波の音が聞こえるわ)
窓からは細い三日月と無数の星が瞬く夜空が見え、その下には荒波が打ち寄せる群青の海が広がっている。この離宮では、皇帝夫妻の寝室は大海を臨む断崖に面しているのだ。
細い指が金の掛け金をつかんだ。
あとは窓を開け、外に出て、バルコニーの端まで歩いていく。それから――。
セラフィーナは目を閉じて、深く息を吐いた。
今の状況で結婚生活を続けることはできない。かといって、もはや国に帰ることも許されない。 そうなれば残された道はひとつしかなかった。
恐ろしくて足が竦むが、それでも歩き出すしかなかった。いざ身を投げてしまえば苦痛を感じる暇さえないだろうし、行き場のないセラフィーナには他に選択肢などないのだから。
(ごめんなさい、チェチーリア姉様)
瞬間、亡き従姉の笑顔が脳裏に浮かんだ。
百合の花のように気品に満ち、誰よりも美しくて、優しかったチェチーリア。
前国王夫妻の娘である彼女と、母を早くに亡くしたセラフィーナはずっと支え合うようにして生きてきた。
だがそんなチェチーリアもまた五年前に命を落とした。それも、このレマンツェ帝国で。
その代わりとして、今度は十九になったばかりのセラフィーナがシルベストルの妻になったのだが――。
(今、わたくしもおそばにまいりますわ)
覚悟を決め、あらゆる手だてを尽くしたものの、とうとうチェチーリアの復讐を果たすことはできなかった。せめてこの命を捧げることで、許してもらえればいいのだけれど。
セラフィーナはひとつ息を吸い、よろめきながらバルコニーへ歩み出る。
(えっ!)
背後からだ抱きすくめられたのは、その瞬間だった。
「どこへ行く、セラフィーナ?」
抑揚のない冷たい声に、セラフィーナの全身が硬直する。心臓さえも鼓動を止めたような気がした。
「……シルベストル様!」
耳をそばだてていたが、確かに足音はしなかった。いや、気配さえ感じなかった。
それなのに華奢な身体は、夫であるシルベストルの腕に背後から抱き込まれていたのだ。それも身動きひとつできないほどの力で。
「もしや海が見たくなったか? 確かにここからの景色はすばらしいが、こんな夜更けでは何ひとつ見えるまい」
「あ、あの」
セラフィーナはうろたえて口ごもる。どこか楽しそうにも聞こえる口調に、かえって身が凍りそうだった。
「しかし月や星はよく見えるな。お前の目当ては海ではなく夜空だったか?」
彼の問いかけへの答えなどもちろん見つかるはずもない。こんな事態は想像さえしていなかったのだ。
「ああ、そうか。わかったぞ。身体が疼いて眠れないのだな。今夜は気を失うまで犯してもらえなかったから、どうにも物足りないのだろう?」
「いいえ。そんなことは――」
「嘘は許さない」
ふいに身体の向きを変えられ、シルベストルに正面から見つめられた。
「ひ」
鋭い視線に射すくめられ、掠れた悲鳴が漏れる。
(眠っていたはずなのに。さっきちゃんと確認したのに)
その疑問が聞こえたかのように、シルベストルが「気にしているのは薬酒のことか」と呟いた。
「えっ?」
「哀れなセラフィーナ。いったい何をするつもりだったか知らないが、私にそんなものは効かない。この身には獣の血が流れているからな」
ひどく冷ややかなのに、激しい欲情に濡れた金茶色の瞳――密林に住む肉食獣が獲物をしとめる時は、こんな視線を向けてくるのだろうか?
「さあ、安心するがいい。すぐにお前の望みをかなえてやろう」
「あっ!」
抗う暇もなく抱き上げられ、広いバルコニーの中ほどへと運ばれてしまう。
第二話の配信は3/15です。