プロローグ
大山(おおやま)すずめは浴室の壁に手を突いて、腰を突きだす恰好で夫の鬼山(おにやま)龍太郎(りゅうたろう)に抱きしめられ、秘丘をまさぐられていた。普段はひとつに束ねられている髪の毛は、今は肩や頬に張り付いて淫猥さを際立たせている。
蜜芽を捏ねられる度に身体中がひくひくして漏れ出る声を必死で堪える。
「んっんっ……ふぁ……そこ……だめです」
「そう言われて、やめる男がいると思うか?」
「だ、だめですっ」
すずめは必死に抗議するが、鬼山は止めるどころか先ほどよりも丹念に花芽を捏ねまわす。するとたっぷり蜜が溢れだして鬼山の指先を汚していく。
がくがくと腰を震わせて喜んでしまうと、そっと後ろを振り向いて鬼山の表情を窺った。
怖そうな切れ長の目、そして食べられそうな大きな口に、すずめより大きな体と厚い胸板。
三十二歳の強面課長。そんな彼の妻になったすずめは二十八歳。
自分たちは年相応の幸せを手にしているのかもしれない。
けれど、まだ信じられない。
彼がすずめの体で悦び、そして求めていることが。
「た、耐えきれません」
か細い声で訴えると、鬼山はにたりと口元を緩めた。
「俺が支える」
「そんなことされたら……っ」
(鬼山さんに触れただけで、イっちゃうっ)
じわっと染み出す蜜は先ほどよりもたっぷりとした量になっていて、確実に頂を昇り詰めている。
なんとか堪えようと壁に身を預けるようにして必死に耐えていると、鬼山は心配するようにすずめの体を抱きかかえだした。
「ふあっ!」
「体が震えてる。このままじゃ風呂場で危ない」
「おにやま……さ……ん」
鬼山の怒ったような声にすら快感を覚えて、すずめは思わず涙目になる。
すると鬼山が慌てたようにはっとした顔をした。
「どうした? 痛くしたか?」
「違うんです」
(幸せ……なんです)
言葉にならずに、ただ潤んだ瞳で訴えるしかできないでいると、鬼山がさらに慌てて指を止める。
「すずめ?」
「続けてください。鬼山さん」
「いいのか? いつも途中で泣き顔になるが」
「嬉しくて」
「泣くほど?」
不思議そうな顔をされて、すずめは赤面する。
鬼山とこんな風に抱き合うことは想像もしていなかった。まして、浴室で互いを想い合ってのセックスなんて信じられない。
鬼山は直属の上司だが、その名の通り鬼上司なのだ。ほとんど口も利いたことがなかった。
彼が愛情深い人だと知ったら、ふたりきりの時間がとても幸せに感じられるようになった。
「続き、してください」
上目でお願いすると、鬼山はすずめを浴槽に入れる。
「寒いだろう」
すずめは首を振りるものの、肌はひんやりしていた。
浴槽の縁に手を突かされて尻をだす恰好にさせられると、指先が二本入れられる。
「あっあぁああ!」
「なかで滑ってる。でも、絡んできて喜んでるみたいだ」
「ち、ちがうんです」
すずめは素直になれずに思わず否定の言葉を言ってしまう。
ぐちゅぐちゅとはしたない音をたっぷりと浴室に響かせているのに、鬼山に嫌われたくなかった。
彼の前ではまだ何もかも見せられないでいる。
めちゃくちゃに掻き混ぜられると、腰が勝手に揺れ始めた。鬼山は同時に、すずめのふくよかな膨らみを丁寧に揉み、先端を摘まみだす。
「あっあっ! そんなにしないでください!」
「どうして?」
鬼山の低い声が耳朶で響いた。その声を聞いただけでもくすぐったくて肩を竦める。
「い、いえません」
「俺はすずめの全部が知りたい。恥ずかしがってるところも可愛いけど」
「私……そんな……鬼山さんに甘えるなんて……あっあっ!」
「今だって甘えてくれたろう?」
すずめは違うと首を振った。
本当は素直に甘えてみたいのだが、鬼山を前にするとどうしても反射的に委縮してしまう。
長年鬼山のことを、恐ろしい上司、自分とは関わりのない人だと思っていたから、素直になんてまだまだなれそうにない。けれど、鬼山は違った。
出会って早々に、すずめに本性をさらけ出してくれている。
「蜜が溢れてる。身体は正直に答えてくれてるな」
「違うんですっ」
「甘えたいって口で言えないだけだろ?」
指先が激しく抜き差しし始めると、すずめはまた腰をがくがくと揺らし始める。
体の奥がジンジンして、思わず鬼山の方を振り向いて見つめてしまった。
「欲しくなってるな?」
「ごめんなさい」
「ここじゃろくな避妊も出来ないが。すずめはいいのか?」
すずめは気が付いて逡巡したが止められなかった。
「じゃ、じゃあ……指で……」
「すずめ、その意味が分かるか? ここでたっぷり指でイカせた後、ベッドでも満足するまでするってことだ」
「だめですっ」
首を振って否定する。
腹の奥が熱くなって、鬼山の鋭い視線にすら肌がチリチリとし始める。
「すずめが素直にならないと、俺もつらい」
鬼山の切ない表情を見せられて、すずめは思わず「してください」と懇願してしまう。
すると、蜜口に熱があてがわれて、そのまま挿入される。
「あっあぁあ! 鬼山さんっ」
「俺たち夫婦だろ?」
「あっあっ! 龍太郎……さ……ん……龍太郎さんっ」
熱が侵入しただけで果てそうになってしまい、すずめは淫靡に喘ぐしか出来ない。
鬼山は後ろから突き上げるようにしてきて、すずめの胸を扱くように揉みだした。
「あんっ! イクッぅ……っ!」
「スゲー締まってる」
その瞬間、鬼山と繋がったまますずめは一度果てた。
けれど抜き差しは終わることなく、すずめの体を支配していく。
「龍太郎さ……すきぃ……大好きぃ……」
「蕩けるまで本音を言わないのか? すずめ」
うわ言のような本音は浴室に響き、互いの脳裏に刻み込まれる。
鬼山の聞いたことのない、甘ったるい声と切ない吐息は今だけはすずめのものだ。
たっぷりと愛し合い、夜は夫婦だと実感するのだが――。
第一話
壁際の席に座るすずめは、夫の鬼山を見つめてため息を吐いていた。
昨夜たっぷりと愛し合ったというのに、彼は今、『鬼』上司であり、夫婦のことは社内にはまだ打ち明けることが出来ていない。
すずめは夫婦別姓にこだわる人間ではないが、社内での結婚を秘密にする為、その道を選ぶしかなかった。他にも、鬼山とすずめはただの上司と部下というドライな関係に徹している。
前日にたっぷりと愛し合ってしまうと、彼の行動のギャップにすずめの方が戸惑いを覚えてしまう。
(私の方、ちっとも見ない。最初からそういう関係だったけど)
一度絶頂を迎えると、その後はグズグズと鬼山にたっぷりと『好き』と心の内を吐露してしまう。やはり本音なんて言うんじゃなかったと、職場に来て後悔するのだ。
普段は鬼山に本音を言えていないが、仲良くやれていたから良い関係なのだと思っている。鬼山は家に帰るなりすずめに甘えてくるが。
すずめの勤める文房具メーカー『ラック』の企画部では、来年の手帳やボールペン、シールなど新年度に向けて新開発の規プロジェクトが立ち上がって忙しくしていた。
すずめもぼんやりもの思いにふける暇もなく、企画書の一枚でも出さないと、鬼山からきつく言われてしまう。
慌ててパソコンに向かって、昨日仕上げた企画書をプリントアウトして確認し、鬼山に持っていく。
すずめは努めて笑顔を作り、昨夜の鬼山の優しさのことは忘れようとした。
けれど、浴室やベッドでの彼の切ない声が脳内でこだましてしまう。
「お忙しいところ失礼します。新商品の企画書をまとめたので、見て頂けるでしょうか」
「頬が緩んでるぞ、大山。そんなに出来がいい企画案なのか」
鬼山の鋭い眼差しを受けて、すずめは肩を竦めた。
「頑張りました」
「頑張るだけなら誰でも出来る」
「すみません」
(朝玄関で、思い切り抱きしめてキスしてきたくせに!)
思わずジト目で見つめてしまうと、鬼山の刺さるような視線がすずめを冷めて見てくる。
「言いたいことがあるのか? 言ってみろ」
「いえ」
すずめが黙り込むと、目の前で鬼山が企画案に目を通し始めた。
それだけでも震えそうな思いだが、鬼山は時間が惜しいとばかりにすべて読み上げてしまう。
「今ざっと目を通したが、斬新さがない。かといってこのシャーペンは目新しい物を狙い過ぎて的外れだ。しっかりリサーチしてこい」
「すみません」
すずめが頭を下げると、鬼山は企画書を返してくる。
「じっくり進めてみろ」
「はい……」
とぼとぼとデスクに戻ると、すずめはどっと疲れてしまった。
もはや前日のセックスのことなど頭の片隅に追いやられてしまい、鬼山のイメージは本来の怖い上司に戻ってしまう。
そもそも、普通に仕事をしていたら夫婦になるようなこともなかったのだ。
良い面も沢山見れているが、仕事ではこの調子。
すずめも自分に自信をなかなか付けられないでいる。
どっかりと椅子に腰を降ろすと、隣に座る三島(みしま)優(ゆう)がすぐに椅子を転がして隣に来た。
ちらりと視線を向けて彼女を見れば、鬼山に鋭い眼差しを向けて睨んでいる。
「もう少し言い方ってものがあると思うの。女子社員の敵よね」
「鬼山課長?」
「それ以外に誰がいるの? ついさっき怒られて、恨みつらみはないわけ? 昨日、企画書には自信があるって言ってたじゃない」
三島はすずめから企画書を取り上げて、目を通していく。
昨日すでに見ているはずだが、改めて見直しているようだ。
「何が不服なわけ? 新しい商品が欲しいんだから、目新しいもの狙うじゃない。斬新過ぎるって言われて、はいそうですか、わかりましたって本気で言ってると思ってるのかしら」
「ど、どうかな」
鼻息荒く鬼山を責めるので、彼の本当の姿を知る身としては、微妙な気分になる。
ただ、会社での鬼山(自分の夫)への評価は三島と同じだ。
最近の企画部には、新商品の開発の為に少しピリピリした空気が漂っている。鬼山が企画をなかなか通さないせいもあるが、そんな彼に認められたいと社員が虎視眈々と成果をあげようと狙っているのだ。もちろん、すずめや三島のように成果が残せずに、後ろ向きな社員もいるが。
鬼山のアドバイスだって決して意地悪で言っているわけではなく、ざっと客観的に見ると確かにそうだと思える。
ただし三島の言う通り、言い方というものがあるのだ。
入社してすぐに辞めたり部署異動を願い出る新人も後を絶たない。
すずめも異動して来て早々に鬼山の洗礼を浴びて苦労した。
三島がいたからなんとか頑張ってこれたが、まだ新商品に向けて鬼山から認められたことは一度もなかった。
鬼山の目は厳しく、勤続年数が長いとか鬼山と親しいとか、そういうことは全く評価には関係なかった。入社一年目にして企画が通る場合もあり、すずめはその点で才能がないのだろうと自覚している。
三島も同様、意地で企画部にいるが成果が出せていない。
なおのこと彼女が鬼山のことを嫌いになるのは分かるのだが、三十歳を目前にして三島は鬼山のことをどんどん嫌悪していくようだった。
「この前、私鬼山課長にお茶淹れたんだけど。お礼もまともに言ってくれないの」
「そうなの⁉」
(鬼山さん、お礼は言わないと……)
ハラハラしつつ、三島の話を聞くことにする。
鬼山は厳しいが、礼儀はしっかりしていて他人を本気で傷つけるようなことは言わないはずだった。三島の思い込みだと思いたいが。
「ん、しか言わないの」
「ん、だけ?」
すずめは意外な思いで三島の話を聞いて、そっと頷いた。
「ありがとうございます、でしょ!」
三島は鼻息荒くして、拳を握る。
「まあ、そうだけど。忙しくしてたんじゃない?」
「どうしてすずめが鬼山課長を庇うのかな。ときどき庇うよね?」
(このあとは製品版でお楽しみください)