プロローグ
「あ、あの……」
田中(たなか)すみれは、ピンク色の寝間着を着て硬直した。
いつもは一つに結んでいる髪の毛も、今は肩の辺りで広がっている。くりんとした目は、持永(もちなが)栄(さかえ)の鋭くも優しい眼差しを見つめていた。その瞳のそばでは、長めの黒い前髪が揺れている。彼は後ろ髪も少し長めで、流して整えていた。
「眠れないんです」
そう言って覆い被さりながら抱きしめてくる持永は、すみれの形式だけの夫。
人生の大半をピアノを弾いて過ごしているせいか、その指先は、女性のように細く長い。つい、それで体を弄られる様を想像してしまったが、これは契約違反だ。
「だめです!」
すみれは枕を持永に押し付けて逃げようとしたが、ぎゅっと抱きしめられる。
長身の持永は小柄なすみれを簡単に抱きしめてしまう。
こんなことはもう一度や二度じゃない。
「不眠だって知っているでしょう?」
「だからって、私たちは便宜上夫婦になっただけで、夜のことまで面倒見れません」
「それも込みで、すみれさんのことを選んだって言ったら?」
すみれは息を呑んだ。
寝室は、ベッドとチェストがあるだけで、ほとんど余分なものはない。そんな互いを遮るパーテーションすらない状態で二人は一緒に寝ているのだ。
どうぞ体を弄ってくださいと言わんばかりだが、彼を信用していたからこそだった。
持永とすみれは、形だけの結婚をして、お互い利害が一致している状況だ。
彼は身の回りのことをすみれに頼み、すみれは両親に結婚したと言える利点があった。
もちろん、セックスなんてしないと思い込んでいたから、ここ最近の持永の夜の行動は目に余るものがある。
「良いですよね」
「だめですっ」
「だって、夫婦なんだから」
「形だけじゃないですか」
そう言いつつ抵抗しようとするが、持永はぎゅっとすみれを抱きしめ、胸に指を這わせてきた。
「や、やあっ」
すみれは思わず甘い声をあげる。
ジタバタもがくと、持永が耳朶に囁いてきた。
「嬉しくなったら気持ちいいと言っても問題ありませんから」
「違うっ! 違いますっ」
「本当に?」
するすると指先で先端をなぞられると、すみれは吐息を漏らした。
「はぁ……あっ……」
(こんなこと、契約違反だって誰だって分かるのにっ)
すみれは涙目になりながら、じろっと持永を睨んだ。
だが、彼はにっこり微笑んで口付けようとしてくる。
「まっ……んっ……んっ……聞いてな……」
「言ってないし、オプションみたいなものだと思っていますから」
「オプション?」
すみれがいまいち理解できないでいるうちに、今度は口内を丁寧に舐られてしまう。
初めて感じる淫靡な感触と口の中を弄る舌に翻弄されて、声が自然と甘くなる。
しかも、時間が長くなるほどに息が乱れて、まるで欲しているようだった。
「んっあっ……」
「悦んでるみたいですね」
首を振って必死に否定していると、今度は寝間着のズボン越しに秘丘を撫でられる。
「あっ!」
「どうしてそんな声が出ると思います? 心地よさには抗えないからですよ」
「ちがっ……やぁっ……もうおしまいにしてくださいっ」
「だめですよ。だって、すみれさんは僕の奥さんでしょう? なんでもこなすし、夜は二人の時間を楽しみたい。不眠だと知っているなら、尚更満たして欲しいです」
「でも、こんなのって」
「妻として、どうしてもすみれさんが欲しいと言ったら?」
すみれはどきりと胸を鳴らす。
それはすみれだってどこかで望んでいたことだ。けれど、いけないことだと思っていた。それに、持永が自分を求めているのは、一時的な寂しさからだろう。
「ほら、ぼんやりして」
するんとズボンの中に手が忍びこんだ。すみれは慌てたが、下着越しに弄られて、あられもない声をあげる。
(私、これからどうなるの? 契約結婚は夜の相手もしないとだめだったの?)
第一話 突然の裏切りと引っ越し
帰宅している電車の中、スマホが振動したのですみれはすぐに手にした。
しかし相手が父親だと分かり、肩を落とす。
放置しようと思ったが、またスマホが振動してホーム画面には『なんで返事しない?』と様子を窺うような文章が浮かんだ。
母親とラインのやり取りをするのは苦じゃないが、父親とのやり取りは面倒臭いのと、容赦ない質問と束縛のような内容で疲れるのだ。
放置しておくと、心配しているという内容の文面がいくつも送られてくる。
諦めてアプリを起動して父親に返事をすると、嬉しそうなスタンプがついた。
『今帰り。今日は残業だったの』
『心配だから、もうお友達の家に居候してまで都内に住むのはやめなさい』
『でも、職場から近いから安心だよ』
『いいから、うちの近くで働きなさい』
ため息を吐くと、すみれはやり取りを一時中断した。
すみれの実家は地方で自営業を営んでいる。さまざまなことを手広く経営することで成功して、お金には困らない生活をしていた。
もちろん、大学までしっかり行くことが出来たものの、すみれの就職先は家業を手伝うことだった。父親の目の届くところで仕事をすること、そして父親の選んだ人と結婚することが当然だった。しかし、すみれは大学まで出て自分に自由がないことに不満を持ち続けていた。
一念発起して都内の友人とルームシェアをして住む、ということで仕事を始めたものの、父親からの監視は厳しく、ルームシェア自体も理解していないようで、居候だと思われている。
そして毎晩のように、父親からメッセージが届くのだ。
『今、仕事で忙しいから』
メッセージを打ったものの、すみれは惨めになった。
転職して都内の大手飲料メーカー『明智飲料』に勤めることが出来たまでは良かったものの、配属先は庶務課。
雑用係として日々労働していて、今日の残業も明日必要な避難経路図の作成に追われたせいだった。新しい飲み物の開発とは全く無縁のことばかりしている。
クリップが足りないと言われれば持っていき、必要な書類をコピーして配布したり、備品の管理をしたりしている。
忙しいのは珍しいことで、いつもは定時上がりだ。
しかも、会社でも影の存在で、やりがいを感じたことはほとんどない。
『体壊してからじゃ遅いから、帰ってきてお父さんと一緒に働いた方がいいだろう』
『仕事が命なの!』
嘘ばかりの文章に、すみれは呆れてため息を吐きそうになる。
いいかげん父親とのやり取りも切り上げようと、スマホをカバンにしまおうとした時だった。
『幼なじみのみっちゃんが、赤ちゃん産んだぞ』
『だから?』
『そろそろ結婚したらどうだ?』
(今度はその話。もう何度も聞いてて嫌になる)
すみれは、スマホをカバンにねじ込んだが、スマホはその後もしばらく振動し続けていた。
二十五歳で上京して、久しぶりに母親と連絡を取ったら、突然『彼氏はいるの?』と聞かれた。
上京したばかりで何を言っているのかと思ったが、すみれの母親は都会に出れば彼氏が簡単に出来ると思ったらしい。
それは父親も同様なのか、一年経って二十六歳になった今でも父親からのメッセージは『結婚はしないのか』という内容のものがほとんどだった。
それをかわすために、仕事が忙しいと嘘を吐く。
その虚しさもすみれの心をじわじわと追い詰めていった。
カバンの中で返事をしないでほったらかしのままにするのも気が引けて、そっとスマホを見ると父親から何度も見たようなメッセージが届いていた。
『とにかく、大人になって友達と住んでるなんてやめなさい』
すみれはムッとする。
友人とはルームシェアだ。家賃だって折半しているし、料理が苦手な友人に代わりすみれが担当している。
決しておもしろおかしく住んでいる訳じゃない。
『そもそも、その友達って誰だ? そっちに友人いたか?』
そんな内容がきて、すみれはどきりとした。
ルームシェア募集というインターネットの書き込みを見つけて、すぐに飛びついた為、父親にしてみれば赤の他人だ。
すみれはすぐに打ち解けて、友人として仲良くやれているが、そんなことを書いたらすぐに実家に戻ることになってしまう。
『もういいでしょ?』
『母さんに聞いたんだが、友人と住んでるんじゃなくて、ルームシェアというものをしているらしいな。相手はどんな人だ?』
(なんでお母さん言うの!)
『年上の女性』
『やめとけ』
言われると思ったが、すみれも頭にきた。
ルームシェアの女性はとても気さくな人で、海外へ行くのが趣味だったり、体を鍛えるのが趣味だったり、一緒にいて楽しい人なのだ。
『なんでいい歳をした女性が結婚してない。何かあるんだろ』
『何もない』
『何かある。いいから帰ってきなさい』
言い合いもごめんだと思い、またスマホをバッグにしまうといつの間にかマンションの最寄り駅だった。
ほっとした思いで駅の改札を抜けてホームを出ると、徒歩十分程度の道のりを早足で歩いた。
今日はそのルームシェアの女性が食事を作ってくれるから楽しみなのだ。
マンションの五階に到着して鍵を回したが、なぜかドアが開かない。二重ロックされているようだ。
おかしいと思い、普段は使わないもう一つの鍵でもう一度開けると、声が聞こえてきた。
「あっああっ! マイクっ!」
(なっ)
「ああああっ! マイクっマイクっ!」
激しい嬌声が聞こえてきて、すみれが帰宅したことなど気がついていないようだった。
そろそろとリビングを覗くと、同居人の美(み)希(き)が半裸で足を広げて白人男性とセックスをしている。
しかも、いつも談笑しているお気に入りのダイニングテーブルの上に寝そべる形になって、かなり激しく腰を使われていた。
相手のマイクもすみれが帰宅したことに気がついていない。
思わず見入っていると、美希がまた声をあげる。
「はああっ! お願い、もっと激しくしてっ」
狼狽える様子のマイクを尻目に、美希は興奮していくばかりだ。
(美希さん、あんなに激しかったんだ。どうしよ、このまま見てるわけにもいかないのに)
求めに応じるようにマイクが美希を全裸にすると、美希はテーブルの上でさらに足を広げ、自ら胸を揉みしだいて誘う。
するとマイクが美希の胸を舐め回して、美希は思い切り声を荒げた。
「はああああんっ!」
(す、ご……)
すみれも蜜がじわりと染み出る。もじもじして顔をそらすが、逃げる勇気もない。
立ち尽くしていると、不意にスマホが振動した。
慌てて電源を切ろうと手に持ったが、美希の声が聞こえてきた。
「誰? すみれ?」
裸になった美希が体を起こして辺りを見回している。
このまま出ていくわけにはいかないと、すみれは息をひそめた。
「すみれ、いるんでしょ?」
美希は服で体を隠し、マイクも美希の影に隠れた。
すみれは観念して、そろそろと二人の前に出る。
「ごめんなさい」
すみれが肩を落として謝ると、美希は信じられないことを言い出す。
「じゃあ、三人で楽しみましょうか」
「えっ?」
「見てたんなら、その気ありでしょ? ほらほら。脱いで」
美希に手招きされて、すみれは後退りした。
(この後は製品版でお楽しみください)