プロローグ
人垣の中心から、薔薇の花束を届けようとピエロがこちらに手を差し伸べた。
随分とロマンチックな道化師だ。自分の表情が曇るのがわかる。それでもなお口角を上げる彼は、差し伸べる白い手袋を嵌めた手の小指から一本ずつ折り曲げ、拳を作った。そして周囲に視線を流して、二つ隣で眺めていた小さな女の子の前に行くと、拳を開いてみせた。
中には、かわいい包装の飴玉が入っていた。
女の子は「わぁ」と小さな感嘆と共にその飴玉を受け取った。
マジックはいかが、とピエロはこちらを振り返る。
「夢は、眠っている間でしか見ちゃいけないものでもないよ」
真っ当なことを口にして、彼はまたこちらに手を差し伸べる。
なにを言っているのだろう。理解できないまま手を出していた。
特に意味はない。それこそ、花束に期待などしてもいなかった。
それでも、いつの間にか手のひらにあったシックな包装の飴玉に、気難しい顔は緩んでいて。
「おめでとう」
ピエロの優しい声がした。彼らしくない、人間味の強い声だった。
「これで、君も夢の住人だ」
◆
胸に顔をうずめると甘い香りがした。
汗のにおいというのか、雄の香りというのか。
それを嗅ぐだけで、思考が支配されるのだけはよく知っている。
「……待っ……、て」
彼の背に爪を立てるようにして、智花(ともか)は声を漏らした。
「早い、よ……ベッドに行ってから、で……っ」
ベッドヘッドを照らす間接照明だけが灯る薄暗い室内。
未だにふわふわのベッドに入ることは叶わず、玄関口で壁に押しつけられている。喘ぐ声を唇に掬われ、吐息すら彼の思うままにされ、彼の肩越しに見えた大きな姿見から、淫らな表情を魅せつける自分がいる。
「それまでいい子になんて待てないよ。だろう?」
何もかもわかったように、仕事用の黒のボトムの上から、撫でるように割れ目をなぞられる。
前に、後ろに。緩急をつけた愛撫に吐息は揺れ、びくんと身体は小さな痙攣を繰り返す。
「あ、そこ……だ、め……っ」
「ここが、いいんだ?」
耳元で囁く低声に、自然と頬が火照ってしまう。
腰が浮く感覚を紛らわせるように、智花は彼の背をつねった。
「いじ……わる」
「したくなっちゃうんだ。好きな人ならなおさらね」
ごめん、と最後には笑って謝り、智花の腰を抱き寄せてキスをする。
唇を合わせ、慣れたようにその間へと舌を差し込む。歯列をなぞり、ざらついた舌を重ねて、貪るように口腔を舐りまわす。
乱暴で、稚拙で。なのに繊細な熱情に、頭は何も考えられなくなる。
このまま、彼に身を委ねることが正解なのだと、身体に教え込まれてしまう。
「……や、だ」
「口はそう言っても、身体は正直だ」
「正直に……なりたく……っ、ないの……ぁっ」
布越しになぞられていた秘裂に、指が食い込んだ。
小さくて、でも、確かに感じて出た嬌声にさらに顔が赤らむ。どれだけ大人になろうと、恥ずかしいものは恥ずかしい。それなりの経験を持っても慣れない。
「かわいいよ、智花。もっといじめたくなるのは、君のせいだ」
そんなのはわからない。身勝手な理由を押しつけないでほしい。
けれども、身体が求めているのは快楽だ。男女の営みを、一度は味わってしまった柔らかな幸福にもう一度と手を伸ばしてしまうのは仕方のないこと。まるで麻薬のようだ。もしかしたら、さっきのディナーに媚薬でも盛られたのかもしれない。
「大丈夫。僕もそれなりに勉強しているから」
勉強とはなんだろう。彼の作品には濡れ場なんてなかったはずなのに。
思考する智花をよそに、小説家の彼は――田村(たむら)一心(いっしん)は、着ていたワイシャツを脱ぎ捨てた。
まろび出るのは鍛えられた肉体。筋肉が薄くついて、いい感じに整った男の人の身体。抱きしめる力強さはよく理解していても、実物を目の前にすると毎度、視線を外せなくなる。胸板、臍に続く割れた腹筋――そして、スラックスを張り上げる彼の、もの。
「凝視するのはよくないよ」
「や……これ、は違っ」
「智花さんはやっぱりエッチだね」
「――っ」
だって、彼が自分に興奮してくれている証でもあるのだから。
作品に惹かれ、憧れていた人が今は自分に触れ、性的に興奮しているとなればどれほど身体に自信がなくとも舞い上がるだろう。
上半身裸の彼にベッドへと招かれる。ゆったりと沈み込むマットレスの心地よい感触と共に仰向けに寝転がると、智花の上に一心が覆いかぶさった。
ボトムの前留めに手がかけられる。指先で器用に外すと、チャックが下りていく。
「……嫌いには、ならないの?」
「なにを?」
言わなくても察してほしい。
「言わなくてもわかるけど、言ってくれた方が僕は嬉しいな」
まばらにベッドの上で散る智花の髪を一房掬って、彼は笑う。
「その方が、ちょっと興奮するんだ」
「そんな……っ」
口ごもる智花に向けるいつもの笑みは、優しくてサディストめいていた。
期待した少年のように瞳をキラキラさせて、智花を見つめる一心には底がない。智花を求めるその想いの一端を理解はできない。彼の愛はどこか空虚めいていて、それでいて情熱的だ。意味がわからない。でも、それこそが惹かれてしまう所以だったのかもしれない。
「……その」
未だに衰えない期待の視線が智花を逃さない。
顔を逸らそうものなら、容赦なく頬に手が添えられた。優しく正面に戻され、「ね?」と促される。知らない。子どもじゃないのだからそこまで補助してもらわなくともできる。
膨らませるついでに、智花は頬に朱を差した。ぼんやりとした照明の灯りの中では、熱に浮かされた女が男に押し倒されている構図しか映し出されない。
でも、それでよかった。アルコールも少し入っている。
――この橘(たちばな)智花は、すでに酔いが回っているのだ。
「えっちな……女の子、とか?」
まっすぐに見れず、やはり逸らしてしまった視線は強制されなかった。
しかし、少しだけコンタクトレンズがずれた。戻そうとしてまぶたを閉じると、うっすらと暗闇の視界に影がかかる。
慌てて目を開くと、視界いっぱいに一心の顔が映っていた。
「それ、言わないといけない?」
「あなたが最初に言ったことですけど」
「あー……そうだったような気がするね」
はぐらかすように唇にキスをして、彼は視界から下向していく。首筋に顔を埋める彼の手は、胸元を隠すブラウスのボタンへとかかっていた。
「ねえ……答えは、ぁ……ん」
智花の言葉など聞きもせず、黙々とブラウスははぎ取られ、黒のブラトップインナーも早々に脱がされた。ベッドの端によけられた服に重ねるように、ボトムも続いて剥がされる。
「――答えなんて言わなくてもわかるでしょ」
首筋に軽く立てられた歯に、びくんと身体が反応する。
ショーツだけの裸体に剥かれた智花は、一心のなすがままに貪られていく。無数の花を瑞々しい肌に咲かせ、熱を持って蕩けた声を吐き出す。その唇に舌を挿し込まれ、痛いぐらいに勃った乳頭は指の腹で捏ねられる。その都度、少女のような声で鳴く智花の頭を愛おしそうに撫でる手のひらのせいで、何かを考えることを智花はやめた。
――ああ、やはり身体に従った方がいいんだ。
「もう、大丈夫そうだね」
濡れそぼつ蜜洞は、痙攣を繰り返すほどに蜜を垂らしていた。蜜を吸ったショーツはびちゃびちゃで、ベッドのシーツにすらしみを作るほどだ。目元に腕を乗せ、荒い息のまま話を聞く智花は、一心にされるがまま股を開いていた。
「挿れるよ」
上体を起こす彼は、そのまま自身の熱塊に触れていた。
腕の下からうっすらと覗く智花は、彼の下半身へと視線を向けた。長大で、雄々しい彼のそれを目の当たりにし、息を呑む自分がいる。反対に、貪欲なまでに好色を示す自分もいる。どちらも間違っていない反応だが――思考が煩わしい。どうして考えようとするのだろう。
あまりにも鬱陶しく思うその考えは、一心へとただ手を伸ばしていた。
「――来て」
その一言だけで足りる。
彼に求められ、愛されるための合言葉なんて、簡単だ。
「は……んっ――ぁ」
間髪入れずに挿し込まれた熱が、肉襞を焼き捨てるように進んだ。焦げてしまいそうな彼の体温が、胎の中を貫いている。ゆっくりと、ただ傲慢に。
「今日はすんなり入った」
「だって……ん、この前もしたから」
彼の形を憶えている。
あまり日を置かなければ、すっと彼と繋がれる。
両足を抱える彼は、何も言わずに動き始めた。鈍重に始まる抽送は、やがて奥をつつくように小刻みになって速くなった。
そのせいで、シーツを掴む手が震える。内腿に触れる彼の脇腹が逞しくて引き寄せられていく。全身が痺れるような感覚は、何度となく小さな波と一緒になって駆け抜けていく。
「もう……だめっ」
激しくなる抽送に、智花はシーツを掴んでいた手を離し、一心へと伸ばしていた。応えるように身を屈める彼は、智花へと覆いかぶさり、彼女の背へと手を回した。智花も同じく一心に抱き着き、始まる何かに期待する。
「いくよ?」
――そこから始まるのは、獣のようなセックスだった。
筋肉の盛り上がる二の腕に抱きしめられ、快楽に拘束されたまま、何度も嗚咽のような嬌声を部屋に響かせた。カーテンがかけられた窓辺がうっすらと明るさを滲ませても構うことはない。一心の猛進は、噴き上げる蜜が止まるまで続いた。
「あ、あぁ……――ッ!」
気が狂うまでイかされることで、夜が明けるころには疲弊した幸福が全身を満たしていた。
酸素も上手く取り込めず、喘ぐような呼吸音だけを部屋に溶かしていく。
「いつも、ごめんね」
並んでベッドに寝転ぶと、彼は言った。優しく耳元で囁く彼の声は、どこか遠い。意識が薄いせいかもしれない。智花は首を振る。
「嬉しいよ……なんだか、よくわからないけど」
正直、激しく求められるのは少し苦手だ。自分が自分でなくなるような感覚もそうだし、果てた一瞬は彼を見失ってしまうようでとても不安で、切なくなる。温かな下腹部の感覚を最後に感じ取って、ようやく交わったのだと理性が実感しなければ、よくわからないままなのだ。
お腹を擦りながら、智花はふっと微笑む。
「でも、こうして一緒にいられるだけで嬉しいし、幸せだよ」
「うん……僕も、そうだ」
一瞬だけ、考えるような仕草をして、彼は笑みを返してくれた。
智花の乱れた前髪を整えるように指先で触れ、一心はその手を頭に乗せてくれる。ゆっくりと、子を寝かしつける父親のように温かな手のひらで、頭を撫でてくれる。
「愛しているよ、智花さん」
頷き返す智花は、瞼を閉じる。
眠りに落ちるのはいつも一瞬だ。夢を見なければ、目が覚めるまでもおなじ。いつもこの繰り返しだ。何も不安に思うことはない。
だから、今日は不思議だった。
「一心さん……?」
目が覚めると、隣で寝ていたはずの彼がいなくなっていた。
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