初めて高校のときにセックスしたとき、鴫原は無残なことに、挿入する前に達してしまった。鴫原同様初めてだった彼女は、自分の腹の上に散った鴫原のものを、まるで汚いものを見るかのように指でそっと拭った。
けれど今、あのときと同じものを、なんの躊躇もなく飲み干す人間がいる。それも男。二重の目を細め、愛しげに鴫原を銜え、丹念に根元から先端までを慈(いつく)しみ、そして射精する瞬間にも、口を放さなかった。
国府は優しかった。
男との行為に、踏み込もうと決めたものの躊躇する鴫原を、決して怖がらせることなく確実に前へと導いていく。
訪れる痛みさえも、愛しさに溶けていく。自分の中で解き放つ瞬間の男の顔を目にしたとき、鴫原は実感した。
「国府のことを、愛している」と。
額(ひたい)に汗を浮かべ、唇を嚙み、眉間に皺を寄せる男の顔は、鴫原と同じ男のもの。過去も経歴も年も関係ない。男という生物が得る快感を示す表情は、同じ。
けれど、国府という男が自分とのセックスで得る絶頂の表情は、自分だけのものだ。
彼は鴫原を抱きながら、何度も同じ言葉を口にした。
「気持ちいい。このまま溶けてしまいたい」
鴫原はその言葉を聞きながら、同じ気持ちになっていた。ひとつになりたい。溶けてしまいたい。内側から自分と繋がった国府を呑み込む。そうすれば、自分を抱いている相手は、自分だけのものになる。永遠に。
けれどひとつになれない相手の体。体内に感じる脈動と、触れ合った心臓から聞こえる鼓動は、同じペースでリズムを刻む。
不思議な満足感と共に、鴫原の耳には、ざわめく海の波の音が聞こえた。
寄せて返す波の音は、人間の心臓の音に似ている。
◆
「波の音……」
目覚めた鴫原は、痛む頭に手をやって、ぼんやりと呟きながら、だるい体をゆっくりと起き上がらせる。夢を見ていたらしい。
裸の肌を優しく包み込む柔らかいスプリングに、覚えはなかった。
自分はどこにいるのだろうと思いながら辺りを見回して、窓いっぱいの、遠くまで広がる赤く染まる水平線に気がついた。
「気がついたか」
窓の前のソファで煙を燻(くゆ)らせるのは、かつて鴫原に「情熱」を教えた男。独占欲と性欲と、嫉妬を教えた男。
彼の声で、鴫原は自分が今どこにいるか、そしてどうしてここにいるかを思い出す。
三年前、鴫原の目の前から突然姿を消した男は、結婚式一週間前になって、突然戻ってきた。そして、有無を言わせず鴫原の体を抱き、彼に言われるままに、海の見えるこのホテルにやってきた。
かつて初めて男と訪れた場所。しかし今回は、オートバイではなく、派手な男の車だった。自分の車ではないと、彼は少し言いにくそうに言った。誰のものか、確かめずとも鴫原には予想がついた。
ホテルにチェックインしたのは、昼前。部屋に入るなりがむしゃらに抱かれ、気を失ったのだろう。時計を見て、鴫原は渇いた笑いを零す。
「腹、空かないか」
素肌にジーパンを穿いただけで、無造作に髪をかき上げる男は、国府良祐という名前だった。鴫原はベッドの上から男を見つめて、ぼんやりと考えながら、首を左右に振る。昨日の夕食のあと、国府の精液以外、何も口にしていないが、空腹ではなかった。
「風呂に入って汗を流してくるといい。その間に適当にルームサービスを頼んでおく」
慣れた口調で電話を掛ける姿を横目に、鴫原は重い足取りで浴室へ向かう。そしてバスタブの中に体を埋め、頭の上から熱いシャワーを浴びる。
渇いた髪が濡れて額や頬に張りつく。体じゅうに残る、赤い凌辱の痕。頬に残る青い痣は、昨夜の抵抗の名残だ。
唇の傷は、何度も切れて血を流し、その血を国府は、舌で拭い去っていく。射精した精液も、汗も、彼の体に吸い取られて行く。
貪(むさぼ)るようなキスに、命さえ吸い取られてしまいそうな気がした。
ゆっくり立ち上がり背中の汗を流していると、太腿の内側を、血液とともに男の吐き出した精液が流れていく。恐る恐るその場所に指を伸ばしたら、微かに熱を持っているように感じられた。
「痛っ」
内側を洗おうと指先を僅かに潜り込ませただけで、全身に広がるような痛みがあった。そしてさらに、愚かな体は、自分の手で探る感覚に反応して、体のある部分の形を変えていくのだ。
「何をやっているんだ…俺は」
壁に両手を押しつけ、鴫原は答えなどわかりきった疑問を、自分にぶつけた。
約束の一週間は、まだ一日目の半ばを過ぎたばかり。
鴫原の突然の失踪は、おそらく恭子の口から松永の妻、そして松永当人にまで伝わっていることだろう。
電話に出た恭子は、鴫原の言葉を聞きながら、何ひとつ余計なことを尋ねなかった。ただ一週間留守をすると言ったら、「帰ってくるの」と儚(はかな)い声を零した。当然だと返すと、待っていると続けた。
彼女と、そして松永にはきっと、鴫原の身に何が起きたのかわかっているだろう。
海の近くの生活は、穏やかに過ぎていく。朝も昼も夜もなく、腹が減ったときに食事をして、あとの時間はゆったりと過ごし、思い出したように肌を重ねる。
鴫原の家にやってきてから自分のことを一切語っていなかった国府は、二日目になってようやく、重い口を開き始めた。
三年の間、どこで何をやっていたのか。そして、どうして今になって、鴫原の所に戻ってきたのか。
しかしながら、かつて会話が上手だったとは思えないほど、国府は言葉が少なくなっていた。だから、ランダムにぽつりぽつり零される言葉を繋ぎ合わせなければ、ひとつの文章にはならなかった。
舞台美術の勉強で、イギリスの劇団に留学することになったのが、三年前のこと。鴫原と関係を持ってからも、根元ではまだ川上のヒモの生活を続けていた国府は、彼の言葉に逆らえるわけもない。しかしそれ以上に、彼にとって舞台美術は、他に代わりの利かない、絶対で最上のものであり続けた。
鴫原を愛していると囁きながら、天秤にかけたら、舞台への情熱が勝つ。それは鴫原も、薄々気がついていた。
「せめて、もう少し前に、言ってくれれば」
バスローブ姿で、気の進まないルームサービスの食事を摂りながら、ぼやくように鴫原が言う。実際には、彼の去った一週間後、イギリスからの葉書が届いている。
劇団の関係で、イギリスに留学する。二年以上は帰れない。そして最後に「さようなら」と、短い、別れの言葉が告げられる。
「聡と会っているときは、俺にとっての一番は聡だった。そんな聡を置いて日本を離れるなんてひどいことは、言えなかった」
「最後まで何も言わず、俺のこと、捨てていったことの方が、よほどひどいことじゃないのか」
まるで女の台詞(せりふ)だと思いながら、頭で思ったことが、そのまま口から飛び出してしまう。
「捨ててなんていない。ただ、ちょっと離れただけだ」
「だったら、手紙に、さよならなんて書かずに、一言待っててくれって、書けばいいじゃないか」
「待てなんて、言えない。そんなこと言ったら、聡は俺のこと、ずっと待ち続けてしまう。俺のことで頭の中がいっぱいだった聡だったから、俺は心配で…それで…」
先の言葉を続けようとする国府の顔に、鴫原は咄嗟にコップに入っていた水を掛ける。
「何をするんだ」
「偽善で、責任逃れだ。俺の人生、引っかぶって生きるのが、辛かっただけだ。それに、矛盾している。水で良かったと思え。本当なら、煮えたぎったスープを頭からぶっかけてやりたいところだ」
視線を合わせず飲み続けていたスープ。口まで運んだところで、手が顔の前を通り、スプーンが壁に当たって落ちた。
「良祐っ!」
顔を上げると、テーブルに手をついて立ち上がった国府は、明らかに不機嫌そうな顔を鴫原に向けていた。
「また殴るつもりか。殴れば、すべて自分の思い通りにでもなると思ってるのか」
昨日から、国府は鴫原に、何度も何度も結婚をやめるように迫っている。自分はもう、二度と日本から姿を消さない。鴫原の前から去ったりはしない。哀しませない。ずっと愛している。寂しい思いは二度とさせない。
「だったら、川上慶太との関係は、どうなっているんだよ」
鴫原が問いつめると、彼は言葉を失う。
「それとこれとは、話が別だ」
「別じゃない。俺を哀しませないと言っただろう。俺がどういう人間か、お前は知っているはずじゃないか。独占欲が強くて、嫉妬心も強い」
かつても同じことで何度も、鴫原は国府と喧嘩した。川上との関係は、国府にとって、切っても切れない存在だと言う。しかし、鴫原は頭では納得しても、感情がどうしてもついていかなかった。
ただでさえ、舞台美術の前では、鴫原の存在など、無い物に等しい。その上、自分以外に、国府と体の関係を持つ人間がいると考えただけで、激しい嫉妬に胸が張り裂けそうになっていたのだから。
「聡」
国府は喉を振り絞るような声で鴫原の名前を呼び、テーブルの上にのっている食器を、思い切り手で払った。
まだ熱いスープも、並々と水の入っているコップも、パンも、テーブルの上にあった一輪挿しも何もかもが床に散乱し、皿は割れた。
「な、に、やって……」
鴫原は勢い良く立ち上がり、国府を怒鳴りかけるが、彼の腕に滲む血の痕を見て言葉を詰まらせる。バスローブの下は、素肌。
慌てて国府の横まで移動し、肌に突き刺さるガラスの破片を取り去る。それほどひどい傷はないが、小さな傷が無数にあって、バスローブまで血で染めている。
「縫わなければならないことはないだろうが、医者に診てもらった方がいい。小さな破片が中に入っていないとも限らない。とりあえずフロントに電話して応急処置を……」
ベッドサイドにある電話に手を伸ばした鴫原の腰に、滑るようにして血まみれの国府の手が回り、ついで背中に温もりを感じる。
「どうした。貧血か…」
驚いて振り向いたせつな、唇に国府の歯が当たり、一昨日に切れた傷が開くのがわかった。
「良祐、何サカってんだ。それより、傷の手当てが先だろう」
「嫌だ」
鴫原の言葉を一言で却下した国府は、背後から鴫原の体を抱えたままベッドに倒れ込む。腰で縛られている紐をそのままに、胸を左右に開き、しゃぶりついてきた。
「ばかっ、本当に、傷が……」
言っている間にも国府の腕からは血が滲み、シーツや互いが着ているバスローブだけではなく、鴫原の肌にも染みをつけていく。
「嘗(な)めて」
国府は真っ赤な腕を鴫原の顔の上に差し出し、強い口調で命令する。
「聡が嘗めてくれたら止まる。全部、嘗めて」
血の臭いが、鴫原の鼻孔を刺激する。腹の中から吐き気が込み上げ、目尻に生理的な涙が浮かぶ。肩を押し返して嫌だと言っても彼の耳には届かない。
「俺の精液が呑めるんだから、血だって平気だろう。俺のことが独占したいって言うなら、全部嘗めろ。川上さんは平気でなんでもしてくれる。それこそ足だって嘗めてくれる」
計算しているのか、国府はそこでわざと川上の名前を出して鴫原の嫉妬心を刺激する。
この腕の血をすべて嘗め尽くしたところで、国府は鴫原のものにはならない。それがわかっていても、彼の言葉には逆らえない。
心の奥底で、三年の間眠り続けていた欲望が確実に芽吹き、鴫原の中で花を咲かせようとしている。国府とのセックスによって種を植えられた花は、彼に抱かれるたびに何度も実を成し、一度枯れてもまた同じように芽吹き、花を咲かせた。
情熱を傾けられるものがなかった鴫原。二一年目にしてようやく知った愛という名前の執着心。
それはすべて、国府に向けられていた。