そのとき、奇妙な声が背後の壁の向こうから聞こえてきた。
「…ぁあっ……」
彰人(あきと)の声だ。
「…ぁ…あっ…、あ……」
びっくりして定人(さだと)は硬直した。
「あ、あ、…あ……」
聞いたことのない声だった。ひどく艶っぽい。
「ぁあぁっ……」
彰人は祐也(ゆうや)と一緒にいる――。
その声がどういう状況を意味するのか。
「…ン、あ、あんっ……」
(彰人っ……)
壁の向こうで彰人が祐也と――。
一気に汗が噴き出してきた。
「ああっ……!」
突然、悲鳴があがった。
「バカっ、いきなり突っ込みやがってっ……」
「そんな色っぽい顔されて、我慢できるか」
祐也が答える。
(つっ、突っ込むって)
定人は焦った。
「ぁあっ、あっ、あっ、よせっ……」
これまでと一転して、彰人は切羽つまった苦しげな声を発する。
「祐也っ」
「ンなこと言って、こっちはまだビンビンじゃないか」
「ああっ……」
声に艶が混じる。
ベッドがきしむ音が聞こえてきた。
「ぁあ、ぁああっ……」
「……!」
定人は慌てて頭の上まで掛け布団を引きあげた。
すぐ隣で彰人と祐也が……。
心臓が早鐘のようにドクドクと脈打っている。
恋愛経験のない定人は、セックスはおろか、まだキスもしたことがない。アダルトビデオさえ観たことがなかった。
それなのに、双子の弟が――。
「あっ、あーっ、あーっ……!」
彰人の声が大きくなった。それと同時に、ぎしぎしというベッドのきしみ音もいっそう激しくなる。
「んっ、んーっ……、あっ、あっ…、ぁああっ……!」
男同士の場合は尻の穴に突っ込まれるということは、定人も知っていた。
以前に観た映画のワンシーンが脳裏によみがえる。
アメリカ人のスパイが収容されているロシアの刑務所の食堂で。金髪の若くほっそりしたロシア人の青年が、逞(たくま)しい男に上半身を組み伏せられて、後ろから。
(彰人が……?)
ベッドの上で、四つん這いになって、後ろから祐也に。
さきほど風呂場で見た弟の裸体が脳裏に浮かぶ。
(あ、あの身体を……)
定人は、ごくり、と唾を飲みこんだ。
身体が熱い。
「ああーっ、あっ、ぁあああっ……」
彰人の声にいっそうの艶が混じる。
「イ、イクっ……!」
(ダ、ダメだっ!)
定人は飛び起きた。
いくら双子でも、彰人の媚態(びたい)を想像するなど、人として許されることではない。
定人は部屋を抜け出し、離れの書庫へ向かった。
静まり返った書庫に入って、定人は息をついた。
心臓はまだ激しく脈打っている。
(あ、あんな声……)
顔が熱い。
普段の凛とした彰人からは想像もつかない。苦しそうで、だが、色っぽい。
思い返すだけで身体が火照る。
(ああいうことをしているんだ……)
彰人に男の恋人がいることはこれまでも知っていたが。
(痛くないのか?)
尻の穴にカチカチになった男のモノを突っ込まれて。
映画のなかの青年はひどく痛そうで苦しがっていた。
(ダメだっ)
定人は慌てて頭を振って妄想を追い払った。
深呼吸をする。
本の匂いがする。
子供のころから、読書をしていれば、なにもかも忘れて落ち着いた。
(なにか……)
定人は本棚を物色した。
さすが双紙館(そうしかん)創業者・橘髙(きつたか)家の書庫だけあって、小説から実用書まであらゆるジャンルの書物が並んでいる。明治や大正時代の出版物もあった。
ある本が定人の目に留まった。
源氏物語――それは自分たちの名前の由来に関係する作品だった。
ともに高校教師の両親は、大学時代、平安時代を専攻していた。日本史の父親は貴族社会の摂関政治を、国語の母親は文学。双子の名前は、その平安時代の二大女流作家、清少納言(せいしょうなごん)と紫式部(むらさきしきぶ)が仕え、摂関政治の象徴ともなった二人の中宮、定子(ていし)と彰子(しょうし)からとった。
書棚にあったのは、男性作家による現代語訳版だった。版元はもちろん双紙館である。
もともと源氏物語は大作だが、さらに加筆されて、全二十巻に及ぶ超大作に仕上がっている。
女性作家による別の現代語訳版は定人も高校のときに読破していた。しかしこの作家のものは、出版されているのは知っていたが、読んだことがない。
一巻を手に取り、何の気になく本を開いた。
その瞬間、官能的な絵が目に飛び込んできた。
春画と表現してもさしつかえないほど艶かしい、裸の男女が淫らに、濃密に絡み合っている。乳首や秘毛までが露骨に描かれていた。
男は時の帝。そして女は桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい)。光源氏の父親と母親。
隣には、その絵に劣らない淫らな文章が並んでいる。
これまで官能小説を読んだことがなかった定人は、衝撃を受けながら文面を追った。
進むにつれ、身体が急速に熱くなった。
奥からなにか凶暴な塊がこみあげてきて、喉をふさぐ。
呼吸が苦しい。自然と息が荒くなる。
身体が熱い。
股間がきつい。
無意識に手をやる。
勃起していた。
硬くなった陰茎が、ゆったりしたリラックスパンツとその下の伸縮性のある下着を押しあげている。
定人は思わずその高まりに手を圧(お)しつけた。そうしながら目は文面を追う。
そのとき。
「熱心になにを読んでいるんだ?」
突然、背後から声がかかった。
「…………!?」
驚いた定人はとっさに股間から手を離し、本を胸に引き寄せた。
振り返ると、ジャージ素材のパンツのポケットに片手を突っ込んだ柾(まさ)嵩(たか)が、ドア口の柱に肩をついて立っている。