美色エリート上司と愛の秘め事【第五話配信】

【第五話】

著作:御上ユノ イラスト:小路龍流

 

美久が個室に戻ると、鷹島は前菜をつまみ、水を飲んでいた。

「そろそろ、メインディッシュが来るぞ」

鷹島は、何もなかったかのように言った。美久は、その配慮が有り難く、手荷物をバッグに入れ、席に座った。

「鷹島さん、本当にお酒を頼まないのですね」

鷹島の横には、美久が不在の間に注文したと思われるガラスのピッチャーが置いてあった。

「ああ……」

「まさか、肝臓……」

美久はもともと夜の世界にいたことを思い出し、口に手を当てた。もしや、肝臓か、どこか他に身体を壊しているのだろうか。

美久のシリアスさに対比して、鷹島が小さく声を出して笑った。

「内臓は丈夫だ。ただ……」

「ただ……?」

美久は好奇心で目を丸くし、首を傾げた。

鷹島は、その仕草がウサギのようだと思って、不思議と愛しさが湧いた。

 

鷹島は、かつて夜職で、様々な女を見てきた。

いずれはホストクラブへ勤めたら、と勧められるほどの容貌であったが、鷹島は、年齢的な問題から、キャバクラの下っ端ボーイからキャリアをスタートさせた。

ボーイとして仕事をするうちに、キャストから色恋に誘われることも少なくなかったが、ボーイとキャストの恋愛はご法度である上、鷹島は自分よりも年上のキャスト達に魅力を感じなかった。

心根が良い女もいれば、他人を嫉妬して裏で攻撃する者、メンタルを病んでいる者、ただ金を稼ぎたい者、ブランド等、コストがかかる生活がしたい者……、様々な人間とすれ違った。

大体のキャストが短命で夜職から上がったが、大手に行って芸能人の端くれに昇格する者もいたし、ある程度の年齢を超えたら、銀座に職場を移す者もいた。

鷹島がその世界で見てきた女の共通点は、その大体が、淋しい側面を持っているところだ。全てではないが、金持ちのごっこ遊びに付き合って稼ぐ理由は、大体、自分を淋しくないようにしてくれる、『誰か』の為、だった。もちろん、若くしてのシングルマザーや、経済的な理由がある者もいる。

その経験から、鷹島は、心に『淋しさ』を抱えていて、それを全面的に埋めるような関係を求める女を、避けるようになった。

そして、昼職に転向することになっても、同じような理由からすり寄ってくるOLは大勢いた。鷹島は、この世はそんなものか、と、色恋を完全に冷めた目でしか見られなくなっていた。

 

だが、初めて美久を見た時、鷹島は不思議な感覚を覚えた。

地味な、いかにも事務員、といった風なのに、よくある『構って』オーラがない。かといって、独立した一人の女として、男に肩を並べてバリバリ働く、という感じでもない。

グループ内では男女半々で、女性社員も遠慮なく意見を言う雰囲気の中、淡々と業務をこなす美久は、まるで違う世界線にいるようだった。

美久に現実生活における野心はない。どこか遠い桃源郷に存在する仙女のようだ、と思った。社会にもまれながらも、擦れずに『無垢』さを保ちつづけることは難しい。鷹島はそれを痛いほど知っている。

 

「……どうしました?」

「あ……いや、何でもない」

鷹島の返答がすぐに無いことが珍しく、美久は戸惑いながら飲み物を手に取った。

「酒の話だったか……」

「はい、どうして、お好きでお強いのに、外で飲まれないのかなって。偏見ですかね……」

「答えは簡単だ、酒臭くなるのが嫌いなんだ」

「……えぇ、そうなんですね」

「もっと具体的に言うと……、酒の勢いでする『何か』が、この世でおそらく一番嫌いだな」

「……何か……?」

「酒の席になったら急に本音を言い出す奴とか、いきなり気が大きくなって女子を口説きはじめる男とかいるだろう? 本当にああいう輩は絶滅してほしい。昭和の悪しき習慣をそのまま引きずっている。酒で犯した過ちは赦されるものではない」

美久は、鷹島の言葉に、ふと優有羽に押し切られた時のことを思い出した。あの時の優有羽は、確かに少し酔っていた。

「飲みたければ家で一人で浴びるほど飲んで、ぶっ倒れて寝ればいい。……それに」

「はい」

「……」

鷹島は、美久の素直さに、内心で少し怯んだ。今から言おうとしていることは、果たして適切か、と、鷹島は一瞬、思考を巡らせた。

一方の美久は、優有羽以前の男性経験に照らして、胸がチクチクしたものの、鷹島の言うことは正しいし、もっと若い頃に出会えていたら、と、牧歌的に考えていた。

「……酒臭いキスは、するのもされるのも御免だ」

鷹島は、上目遣いで、美久の目を窺った。本人はその効果を意識していない、鷹島の癖なのだが、美しい瞳に半ば睨みつけられて、何らかの情が湧かない人間はいない。

その一方で、超マイペースな美久は、この事態をゆっくり飲み込んでいった。

(キス……)

美久は、突然出てきた単語に、唇を少し動かした。

そして、後から、下半身の奥が、きゅんと疼いた。チラッと見えた鷹島の強い瞳と、キスという行為が、脳内で交差する。

(鷹島さんも、キス……するんだ……)

そう思うと、美久は、少し嫉妬混じりの動悸がしてきて、左手を胸に当てた。

「セクハラ発言に当たったら、すまない」

美久が急に黙ったので、鷹島は美久の気持ちを計りかねて言った。

「あ、いえ、違うんです……」

鷹島だって、聖人君子ではない。結婚はしていないとはいえ、そういう関係の相手がいてもおかしくない。いやむしろ、いないと思い込んでいたのは、自分の『願望』だ。そもそも、自分は優有羽とそういう関係にあって、何を鷹島に求めようとしていたのだろう、と、美久はまた恥ずかしくなった。

「なんか……すみません……」

美久は、心で思ったことを口からうっかり漏らした。

「何が? 白城君が謝ることなんて何もない」

鷹島は、ピッチャーから自分のグラスに水を注いだ。

その時、メイン料理が運ばれてきた。二人がそれほど食べてないことを女将がキッチンへ伝えたのだろう。豪華な懐石料理、というより、量は控えめ、冷めても味に影響が出ないような、それでいて栄養バランスの良さそうな、田舎風料理が並んだ。

「……今日はこうきたか、若大将らしい」

女将が料理を並べる間、鷹島は愉しそうに呟いた。女将は、相変わらず柔和な表情で、粛々と業務をこなし、必要最低限の時間で去っていった。

美久は、前菜にほとんど口をつけられなかったことを反省し、しばらく、言葉少なに食事をした。だが、先ほどの、『キス』のくだりが胸につかえて、胃がうまく動いていないような感じがした。

鷹島は、水をゆっくり飲みながら、時折、美久を眺め、優雅に箸を運んだ。

 

「さっきから、様子が……いや、普段の白城君を知らないで言うのも何だが、色々と、困らせることを言ったかもしれない。というか、そもそも泣かせてしまった時点で……」

鷹島は、デザートの白桃ジェラートを、スプーンで真っ二つにしながら言った。その言葉で美久の動きが止まる。

「いえ、……いえ……、違うんです」

「……溶けるぞ、アイス」

鷹島に言われ、美久は、はっとして、手を動かし、デザートスプーンを持った。

「白城君、……君は、今後、何が、夢とかあるのか?」

「夢……ですか?」

美久は、ところどころに白桃の果肉が含まれたジェラートの端を、スプーンで削ぎ落とした。

「すごく普通ですが……旅行……ですかね」

「国内? 海外?」

「これといった国はないですけど、海外です」

「目的なく旅したい、という感じか」

美久は、ジェラートを一口、口に含んだ。冷凍ではない生の果肉の甘酸っぱい香りが、舌にいっぱいに広がり、するっと淡く消えた。

「美味しい……」

美久は、思わず呟いた。それを見た鷹島は、温かい微笑みを浮かべた。

「最後になって、やっと美味しいものにありつけたな」

「い、いえ、全部美味しかったんですけど……」

「まぁ、お互い初めてのこういう機会だ。そもそも、白城君と、ゆっくり話す機会もなかったしな。まぁ、あの偶然がなければ……」

鷹島は、言いかけて、少し口をつぐんだ。

「ママのところで、バイト続けるのか?」

「あ……いえ、分かりません……。私は単なる代打でしたし……それに、バイトとしても、結構、厳しい世界だなって、思いました。私、接客は本当に苦手で……」

「そうか」

鷹島は、テーブルに片肘を突き、視線を右に向けた。右側に何があるわけではないが、美久はつられてそちらの方向を見た。

不意に、漆黒の瞳が、妖艶に伏せられた。美久は胸を高鳴らせて、鷹島に魅入った。この男性には、なぜこんなに、色気があるのか、美久には理解できなかった。カッコいい、ではなく、艶っぽいのだ。カッコいい、も、鷹島を表現するに当たり、間違ってはいないのだが。

「僕は、ダブルワークも自由にやればいいと思っている。よく、本業に影響しないように、とカッコ書きがあるが、どちらが本業になるかなどわからないし、会社が決めることでもないと思っている。僕は、本人の適性を支持する」

「……そう言って頂けると、理奈……いえ、成田さんみたいな人は助かります」

「ああ。それとは別の話で」

「はい」

また、真っ直ぐな返事をされ、鷹島が一瞬、躊躇する。

「白城君は、……君には、杜君がいるが」

「あ、優有羽のことは……」

今度は、美久が視線を逸らす番だった。

「私は、恋人とは、はっきり言えない、微妙な気持ちなんですが……。温度差があるみたいで……」

「……ああ、そうなんだろうな」

鷹島はピッチャーから、残りわずかの水をグラスに注いだ。

「僕は、さっきの話と同じく、白城君の気持ちを支持するだけだ。杜君には、……まぁ、同じ男として、思うところはあるが、彼も彼で成長段階だ。『君達二人』に介入しようとは思わない」

「……はい」

その言い方は、少し突き放されたようにも解釈できて、美久は少し冷たい感じがした。

「だが、……僕は、白城君に、興味がある。……なんと表現していいのか、分からないが……、もちろん、プライベートな意味でだ。白城君が誰とどこで何をしていようが、変わらない自分の気持ちだ」

「……」

突然の言葉に、美久は思考が止まった。どういう意味ですか、と、聞き返すのも、野暮な気がした。

「何となく気にはなっていたが、確信したのはついさっきだ。身勝手な男の一方的な話だから、スルーしてくれて構わない。……大げさな話に聞こえるかもしれないが、君のような人が存在すると、今まで想像したこともなかった。白城君は、何を言われているのか、よく分からないだろう。……まぁ、そういうことだ」

鷹島は珍しく、会話を急に畳んだ。

美久は、鷹島の言う通り、話の半分は理解できていなかった。その代わり、鷹島をじっと観察した。彼の首筋から耳元が、ほのかに赤く染まっていた。そのように、鷹島が肌を上気させるのを、美久は初めて見た。どんなに激しい仕事の議論でも、酒を飲んだ時も、鷹島の精悍な顔立ちは、少しの変化も見せなかった。

「……嬉しいです」

美久の言葉に、鷹島の目が少し見開かれた。そしてまた、深い二重が、黒い瞳の三分の一を隠す。

「なんか……大きな……向日葵みたいな花が、足元に咲いてる小さな雑草に、気づいて気遣ってくれてるみたいで……嬉しいです」

美久にとって、それは正直な感想だった。

鷹島は、自分を卑下しすぎているように感じた。だが、美久は、たとえ自分が雑草であったとしても、それはそれで充実している、と考えるのだろう。そう思い直した。

「……そろそろ行こうか。今日はまだ木曜だ」

「そうですね。……今日は本当に、ありがとうございました。ちょっと、化粧室、行ってきますね」

「じゃぁ、店の外……エレベーターを降りて、一階で待っている」

美久は、バッグを持ち、早足で個室から出た。

二度目の化粧室は、最初の時とは、気分が違った。まぶたの腫れも引き、心なしか肌艶が良くなっているような気がして、美久の胸が小さく躍った。

……一方、その頃、会計に立った鷹島は、女将からの説明を受け、複雑な気分になっていた。

 

「すみません、お待たせしました」

美久は、エレベーターの前で立っている鷹島に近づいた。

改めて並んでみると、鷹島は美久の頭二つ分ほど長身である。低いヒールを履いてきたので、今日はことさら首を上げなくてはならない。

鷹島は、ポケットに両手を突っ込みながら、ブラリ、と、身体ごと美久へ向いた。美しい瞳を細め、小さくため息をつく。

「何で白城君が会計を済ませているんだ……」

鷹島は、ゆっくりまばたきをして、美久の小さな姿を見下ろした。呆れ、諦めた口調と表情だ。

「はい」

美久は、一度目に化粧室へ立った時、持っていた財布のカードで、会計を済ませていた。

「……もしかして足りてませんでしたか?」

「いや、そういう問題じゃない」

鷹島は、エレベーター横の壁に背をつけて寄りかかり、少し視線を低くした。

「こういう時は……上司の僕が……」

「役職はなし、……って、言いましたよね」

「ああ……そうだな。じゃぁ、違う理由を出そう。こういう時は、普通、男が……」

「普通……?」

美久は、小さく首を傾げた。鷹島は、男女間の『暗黙の了解』について、口を開きかけたが、美久が分かる相手じゃないと判断し、黙った。鷹島は、長い指先で、緩く波打った黒髪を乱した。

「……鷹島さん、イライラしてます……?」

美久は、怖がるでもなく、淡々と鷹島に尋ねた。

鷹島の中で、美久のイメージが、仙女どころか、戦女になっていく。先ほどまで、美久は、初冬の泉に張った薄氷のようで、少し刺激を与えるだけで崩れ落ちそうだった。

だが、今は、両手に武器を持ち、有事の際には振り下ろすのをためらわない力強さを感じる。ビクビクとしたウサギに、突然、翼が生えて、鳳凰になったようだ。

鷹島は、少し冷静になり、まずは美久におごられた事実を引き算した。鷹島は、おごられるより、おごる方が性に合っていた。若くて貧乏な頃、数多くの先輩が、『出世払い』というドネーションで、鷹島を生かしてくれた。だから、鷹島は、自分より年下であれば、自然とおごる行為が身についていた。

他方、美久がここまで引かない理由は、何か確固たる理由があるのだろう、と、鷹島は考え直した。

それに。

鷹島は、この、美久の謎めいたところを、魅力とも感じていた。自分のリズムを多少、崩されたからといって、それが何なのだ。

「イライラは……していない。だがなぜ……? 理由が聞きたい。まさかあまり食べられなかったから、とか……そういう理由では……」

「あー……えっと、違います。いつもの感謝です」

「いつもの感謝……?」

美久は、照れて、頬が熱くなるのを感じた。

「いつも……、鷹島さんは、仕事で、お忙しくて……。直接、私とやり取りする機会もないですけど……。でも、部内のメンバー皆の仕事量は、気にかけてくれてますよね。キャパオーバーにならないように。普通の部長なら、グループリーダーに丸投げなのに」

「あ……ああ」

鷹島はそれを、部下達には気づかれないように行っていた。二人のグループリーダーに、その部下達が抱える仕事量をまとめさせ、自分の日課として、その共有データに目を通している。鷹島が気をつけているのは、日々のルーティン業務と、突発的に発生する業務を同時に抱えるポジションだ。イレギュラー作業は、その負荷とともに、働き手の時間や体力を大幅に削る。それが何度も続けば、離職に繋がりかねない。育てた人材の流出は、部全体に、マンパワー不足という悪循環を生む。鷹島が部長になって、水面下で真っ先に取りかかったのがその業務量の把握と調整だった。実際、鷹島が部長となる前の離職率は、雇用形態を問わず高かった。忙しすぎる、特定の人間に業務が偏りすぎる、というのが、主な離職理由だった。

「……よく、気づいたな」

言われて、美久は微笑んだ。

「鷹島さんが来る前の状況を知ってるからですよ。あの時は……業務が多すぎて、トイレで泣いたこともありました」

「……そうか」

「急に、あれやって! ってことは、やはり、競合他社が施策を打ってきたら、ありますよね。前は、それを全てこなさないと帰れない、って感じでした。でも今は、そういう時、臨時で手伝ってくれる人が、私がヘルプを出す前に来てくれるから、すごく助かってます。その人に聞いたら、グループリーダーに言われたから、って。でもグループリーダーは、独自にそうやって配慮してくれる人じゃないって、鷹島さんが来る前に、痛感してます。鷹島さんが変えてくれたんです。そうでなかったら、私はギブアップして、また転職するところでした」

美久は、大変だった頃を思い出し、目を潤ませた。

鷹島は、同情を込めて、「大変だったな」と優しく言った。

「だが……その、話を戻すと、この店の食事代は、安くはなかったはずだ。白城君はもっと着飾っていいぐらいだ。ブランドバッグの一つや二つ、自分の為に買ってもいいんじゃないか……。だから、僕は、君に食事代を出してほしくなかった。君のお金は君自身の為に使ってほしいんだ」

「ブランドとか、興味ないです」

美久は俯いて首を振った。絹糸のような髪がサラサラと揺れ、鷹島は一瞬、そちらへ見惚れた。

「あ……」

美久が、何かを思い出したように、顔を上げた。白い頬に、一筋、髪がまとわりついている。鷹島は指を伸ばして、その静電気を解いてやりたい気持ちになった。

「旅……」

美久の丸い瞳が、鷹島の遙か彼方にある何かを眺めるように、ぼんやりとした。

「ああ、そういえば、白城君は……」

鷹島は言いかけて、美久の瞳の美しさにハッとした。ぱっちりとした黒目だと思っていたが、至近距離でよく覗くと、グレーがかった瞳の縁に、瞳孔まで焦げ茶色と黒の繊細なグラデーションがかかり、宝石のような立体感と輝きを放っている。

鷹島は、数年、いや、本気と定義するなら、数十年振りに、雄の欲情を覚えた。

 

美久は、食事代を払った理由を鷹島に説明できて、ほっとした。自分がそうしても、鷹島は喜ばない、むしろ、嫌がられるかもしれない、というのは、想定内だった。

『自己満足』。美久はそれをしたかった。押しつけなのは分かっていた。ただ、鷹島が部長になってから今まで配慮してくれたことへの、感謝の意を示したかった。

美久は、鷹島から自分の為に金を使えと言われて、『旅』という言葉が浮かび、無意識に口にした。

(旅がしたい……)

美久は、なぜ自分がそう思ったのか、しばらく考えた。その間、鷹島は微動だにせず、その怜悧(れいり)な黒曜石の瞳を、美久に向けていた。

「旅……、そういえば、白城君は、海外旅行がしたいと言っていたな」

「ええ……はい。でも……」

美久は、生返事をした。海外旅行に今すぐ行きたいわけでも、目的地が定まっているわけでもない。何か、しっくりこない。

「新しい体験がしたい……に、近い……意味ですかね」

美久は、目を伏せた。鷹島は、そんな美久に近づき、できるだけ視線の高さが同じになるよう、中腰になった。

前を閉じていないコートの間から、鷹島の熱とフレグランスを嗅ぎとり、美久はドキリとした。反射的に、顎を引いて身構えてしまうほど、鷹島は近くにいた。

鷹島は、綺麗な指を、美久の頬へ伸ばした。美久は、視線を挙動不審に彷徨わせて、鷹島が何をするのか待った。人差し指が、美久の頬についた髪を、優しく剥がす。

鷹島の身体が、肌に触れるのは初めての経験だった。触れられた瞬間に、美久の身体の底から、ゾクリとした震えが湧き上がった。美久は、痛みに耐えるように、思わずギュッと目を瞑った。

「自分の髪……食うぞ」

鷹島の息が微かに美久の顔へ届いた。それに、低くて、甘い声。今は優しさが加わって、糖度が跳ね上がっている。もし、この声を、もっと耳元で注ぎ込まれたら……。そう考えただけで、美久は快感の波を覚え、握り拳をつくった。

「確かに、白城君の知らない、新しい経験の案内役は、僕が適切かもしれないな」

そう言った後、鷹島は、急に身体を引き、中腰もやめて、姿勢を正した。

突然、二人の間に距離ができて、美久はいきなり心地の良い毛布を引き剥がされたような、失望と寒さを覚えた。

「じゃぁ、今度、計画しておこう」

鷹島が、コートを翻し、美久に背中を向けかけた。

美久は、これ以上、鷹島と物理的な距離ができるのが、嫌だった。手を伸ばし、上質なウールのコートへ触れる。敏感な鷹島は、それだけで動きを止めた。

「今度……じゃなきゃ、だめですか……?」

美久は、その一言を言っただけで、なぜか息が上がった。

鷹島が、ゆっくり身体の角度を戻した。

美久は、意識のほとんどが、欲情に支配されかけているものの、さすがに恥ずかしくなって、鷹島の顔を、まともに見ることができなかった。

「その……。今夜……、『鷹島さんに好かれる』っていう……経験を、してみたい……です」

美久の理性のどこかが、何を言っているの、と、腹を立てていた。そんなこと、急に言われても、鷹島部長が困るでしょ……。

鷹島は、手を伸ばし、美久の頬を、手の甲で軽く撫でた。美久の下腹部から、鼓動が響き上がってくる。今、能動的になったら、何か取り返しのつかないことをしてしまいそうで、美久は動きを止めた。

すっかり地蔵のように固まった美久の髪を一房取り、鷹島は手の中で滑らせた。そして、美久の頭を、料理店でしたのとは異なったニュアンスで撫で、耳元に、唇を寄せた。

「……ああ、付き合う。何がしたい……?」

その瞬間、美久の理性は、完全に吹き飛んだ。

 

〈第六話へ続く〉

美色エリート上司と愛の秘め事【第六話配信】

関連記事一覧
Related Post