忘却の迷宮~黒騎士は姫君の愛を取り戻す~【第三話配信】

【第三話】姫君は記憶の迷宮の中で

著作:赤城まや イラスト:かんべあきら

 

──……ナ。ユリアナ……──

誰かが、自分の名を呼んでいる。

まどろみの中で、ユリアナは夢を見ていた。

義父の死以降、あまりに思いがけないことが続いた為だろうか。彼女は一度、長く深い眠りに落ち、その後、ここまでの記憶を確かめるように夢の回廊を辿っていた。

「ユリアナ……」

苦しげに咳き込む声。そのすぐそばの長椅子でうとうとしていたユリアナははっと身を起こした。寝台で義父が自分を呼んでいるのだ。

──いけない……!──

慌ててコルクで蓋をした陶器の壺と、杯とを手に取り、義父の枕元に駆け寄る。カーテンの隙間から窓外を見やると、夜は明けたようだ。

薄明の中で、義父は枯れ枝のようにやせ細った身を丸め、喘ぎながら繰り返し咳き込んでいた。

一年前、ユリアナの義父ヨハンは、記憶を無くした彼女の静養のためと称し、国王の側近の地位を得ていたラインラントの王宮を辞して、彼女とともに自身の領地に引きこもった。だがしばらくすると彼自身が病に倒れてしまい、ユリアナは侍女たちとともに、その看病に追われることになった。彼女が中心になって侍女たちとともに看護をしているが、容態が悪化していくとともに、ユリアナが付き添う時間が増えた。義父がそれを望んだからだ。今も、『何かあった時はすぐお呼び下さい』という侍女たちに礼を言って休ませ、彼女が傍にいたのだった。

ユリアナは義父にかけられた毛布を背中のところだけめくると、まず、咳き込むその背中を撫でてやった。すると義父は心地よさそうに目を閉じ、大きく息をついた。

「ごめんなさい、眠ってしまって……。お義父さま、お薬を飲みましょうね」

義父が喘ぎながらも頷くのを見て、ユリアナはその身体を寒くないようにと再び毛布で覆い、その日の夕方、侍女たちとともに煎じたばかりの薬湯を杯に注いだ。

季節は既に秋も半ばで、朝晩はかなり冷え込むようになっている。そっと枕の位置を変えて飲みやすい姿勢にしてやってから、薬湯をスプーンで掬って飲ませる。もう義父は、自分では起き上がることも出来なくなっていた。日に日に衰弱しているのがわかる。

それでも、義父が何とか数口飲んだので、ユリアナは驚いた。いつもは一口飲んだだけでいらない、と言うのに、少し回復してくれたのだろうか。咳も一旦おさまった様子なのでほっとして、清潔な布で義父の口の周りを拭いてやりながら思わず笑みを浮かべた。

「済まないな……ユリアナ。お前は私に、実の娘よりも……バルバラよりもずっと優しくしてくれる」

義父が老いた茶色の目で、じっとこちらを見てそう言ったので、ユリアナは切なくなった。そんなことを口にするなんて、義父は随分と心も弱っているのだな、と改めて思う。

ユリアナと義父のヨハンとは、ごくわずかしか血が繋がっていない。ユリアナの生家、メルツェル家はラインラントでも古い名家だったが、ユリアナが五歳の頃、前領主だった実父が亡くなり、母はその後領地を守るため、メルツェル家の傍系で父の遠縁のヨハンと再婚したのだった。ヨハンもまた妻に先立たれた再婚で、ユリアナより三歳年上の娘、バルバラを連れていた。

そうした、思いがけない形で領主となった義父は、その不安を取り繕う為か、若い頃は随分と高圧的な態度だった。家族に対しても愛情はあったのだが、とにかく色々と口うるさく指示を出してきたのだ。

それに対して実の娘バルバラは反発し、きつい言葉を投げつけ、親子で酷い喧嘩になることもしばしばあった。母やユリアナはなるべくバルバラを庇い、フォローしていたのだが、彼女は新しい家族や、領地での暮らしも嫌っていた。義父の前妻、つまりバルバラの母はあまり生まれが良くなく、血筋からも、前領主の嫡子であるユリアナがメルツェル家の相続人である、ということも不満だったらしい。

そしてユリアナの母が亡くなった頃、ちょうど年頃になった彼女は、実父との仲が険悪なまま、行儀見習いという口実で首都イェーナにある王宮に赴いた。そこで今の夫、グスタフと出会ってからはほとんど館に戻ってこなくなり、今に至っている。この時代、ラインラントでは、機会があれば身分のある家柄の子息や子女を王宮に出仕させ、国王や妃、その王子や王女に仕えさせて出世の足がかりにしたり、嫁入りの際のステイタスにしたりするのが習わしだった。

ユリアナにも以前に、王宮への出仕の話が持ち込まれたことはあるのだが、事故で記憶を失って以来、立ち消えになってしまったらしかった。そしてユリアナが次第に回復してきた頃、今度は義父が病に倒れてしまったので、彼女はずっと領地を出ずに、父の看病を続けている。

最初、実父が倒れたと聞いて、バルバラは夫を伴い、何度かこの館に来ようとした。だが義父は何故かそれをきつく断り、強引に来ようとすると警備の兵さえ使って追い払っていたのだ。ユリアナは驚いた。

「お義父さま、どうして? お義姉さまはお義父さまのことを心配していらっしゃるのでしょう」

「いいのだ。お前は何も心配することはない。私に任せておきなさい」

義父は詳しくは話さず、そう応じるだけだった。ユリアナも父の看護に追われていたし、義姉のことは以前からどうにも苦手だったので、つい言われるままにしてしまったが、それは良くなかったと思う。義父がこんなに弱ってしまった以上、ともかく出来るだけ早く、義姉に会いに来てもらおう、と思った。なんと言っても彼女は、義父の実の娘なのだから。

──お義父さまの先を見越すようで、それは申し訳ないのだけれど……──

などと思いを巡らせながら、ユリアナは気を取り直し、笑ってかぶりを振った。

「そんな。私が記憶を失った時は、お義父さまが大層ご心配して下さったでしょう。お義父さまがいらっしゃらなかったら、私はどうしていいかわからなかったわ……」

ユリアナの記憶は、十六歳の誕生日で途切れてしまっているのだ。

ユリアナはその日、家族と──つまり義父や、久しぶりに帰ってきた義姉のバルバラ、その婚約者のグスタフとともに祝いの昼食をとったことは覚えている。そしてその後、自分が領民や侍女たちに祝福を受けながら、館の正門前に止められた馬車に乗って、父とともにどこかに出かけようとしていたことも。だがその後の記憶がふっつりと途切れているのだ。

……そして、この館で再び目覚めた時には、自分は十七歳になっていた。義父の話では、自分は義父とともに領地を周回して領民たちの祝福を受けていたが、その途中で落石の事故に遭い、頭を強く打ってずっと長い間、意識を失っていたらしい。さらにその後目覚めはしたものの、まるで夢の中にいるような状態で、義父は一層心配したという。

だがユリアナはその辺りのことも覚えていない。彼女の意識では、ある時、いつものように目覚めたら、ほぼ一年が過ぎていたのだ。

朝、目覚めて傍らにいた侍女に声を掛けた途端、彼女は酷く慌てふためいた様子で義父を呼びに行った。そして、駆けつけた義父に涙を流しながら抱きしめられて、ユリアナは彼の口から、自分がこの一年、どういう状況だったかを聞かされたのだ。そのことを知った時の衝撃と心細さは、今でも忘れられない。そして、確かにユリアナの記憶は失われていた。

──お義父様は宮廷も辞して、不安で一杯の私を、この館で側を離れずにずっと守ってくれた。それは本当だわ。でも……──

「ユリアナ……。私はもう一つ、お前に謝らなければならないことがある。お前の失われた記憶についてだ」

その時、義父の言葉にユリアナははっとした。慌ててその顔を間近でのぞき込む。

「お義父さま、何を仰るの?」

「お前が記憶を取り戻そうとするのを、私は酷く嫌がったし、やめさせようとしたな。だが、それは間違いだった……落石の事故というのは嘘だ」

ユリアナは愕然とした。だが、それは以前から、彼女もそうではないかと思っていたことだった。自分の記憶についての義父の態度が、あまりに不自然だったからだ。急いで気を取り直し、再び義父を見つめた。

「お義父さま。私が記憶を失ったことには、何か特別な事情があるの? そしてそれはもしや、大変なことなの……!?」

病の義父に、済まないと思いながらも、何とか知りたくて懸命に尋ねる。義父の顔がさらに苦渋に歪んだ。それはユリアナが記憶について尋ねると、いつも浮かべる表情だった。

『──お前が事故に遭い、そんな目にあったというだけで本当に辛いのだ。頼む、私にそんなことを思い出させないでくれ!』

かつて、ユリアナの身体がかなり回復し、失われた記憶やその原因となった事故について詳しく知りたいと願った時、義父はそう言って拒絶するばかりだった。しかも、後になってわかったことだが、義父は、ユリアナが記憶を失った時に、館に勤めていた執事や侍女など、使用人たちを全て解雇し、入れ替えてしまっていたのだ。それも、当時のことを思い出したくないという彼の意志だったという。

ユリアナはさすがに驚いたが、義父の言葉が本当に辛そうで、自分がそこまで心配をかけてしまったのかと思うとあまりに申し訳ない気がした。また、思い出そうとすると何か、ひどく辛い気持ちになることや、さらにその直後、義父が倒れたこともあり、彼女は義父の行動に疑問を感じながらも看病に追われ、それ以上彼に記憶について聞いたり、自分で調べたりすることも出来なくなってしまったのだ。

──その時、再び義父が大きく咳き込んだ。先程の咳より酷い発作で、ユリアナは慌ててまたその背をさすろうとした。だが義父はかぶりを振り、弱々しいが懸命な仕草でその手を押さえた。そして自分の胸を示す。

「で、出来れば、全てを、話したかったのだが……時間が、ない。ユリアナ……この袋を、取ってくれ。そして中を、見てほしい……」

「え、これ……?」

義父は胸に、小さな革袋を一つ、鎖に通して下げていたのだ。中には母の髪が入っているという。それを彼は、寝台に寝たきりになっても外さず、常に身につけていた。

丁寧に、だが出来るだけ急いでそれを義父の首から外すと、ユリアナは革袋を開けた。そして目を見張った。中には母と、前妻のものらしい編んだ髪がいく房か。そしてもう一つ、小さな鍵が入っていたのだ。

「お義父さま、これは?」

「その……書棚の奥に、隠し金庫がある。その鍵だ。開けて、中のものを、持ってきてくれ」

そんなことは初耳だったが、ユリアナは手元を照らすためにランプを手に取ると、言われた通り、急いで書棚の本をかき分けた。すると、書棚の一番奥の位置に、確かに小さな木の扉があり、錠前がかかっていた。本が貴重なこの時代、義父はそこの本に触れられることを酷く嫌っていたのだが、それはこのためだったのか、と思った。急いで鍵を錠前の鍵穴に差し込むと、簡単に開いた。中に入っていたのは、ユリアナの手の平に乗るほどの大きさの、木の小箱だった。

「開けてみなさい」

寝台から義父の声が聞こえたので、ユリアナはランプをすぐ側に置き、箱を開いた。

「──まあ……!」

開けたとたん、青い光がユリアナの目を射た。そこに入っていたのは美しいペンダントだった。

中心に大きな、そして上質な深い青のサファイアがはめ込まれ、その周りをぐるりと、金細工で繊細に彫刻された葡萄の蔓が取り囲んでいる。その葉と実も極小なのに見事に再現されている。

思わず金の鎖に指を通して目の前にかざしてみる。少なくとも、今のユリアナにとっては、これまで見た覚えの無いペンダントだった。ランプの光に照らされて、サファイアと金が一層美しくきらめいた。相当な価値のものであることは一目見てもわかった。だがその美しさ、豪華さとはまた別に、何か強く心惹かれるものを感じて、ユリアナは吸い寄せられるようにそのペンダントを見つめてしまっていた。

──どうして、こんなものがここに……?──

その時、背後で再び、義父が苦しげに咳き込んだので、ユリアナはペンダントとランプを手に取ったまま、慌ててきびすを返した。ランプに照らされた義父を見て、はっとする。容態が急変したのがわかった。

「お義父さま!」

「ユリアナ、すまなかった……」

「今は喋らないで。息がもっと苦しくなります。ね、お薬を……」

ユリアナが急いでその身体を支え、再び薬草を飲ませようとするのを義父は仕草で拒否した。そして、食い入るようにユリアナと、その手の中にあるペンダントを見つめ、声を絞り出した。自分の命が終わりかけているのが、彼にもわかっているようだった。

「その、ペンダントは、お前のものだ……。わ、私は、どうしても、お前に、記憶を、取り戻してほしくなかったが、間違いだっ、た……」

「お義父さま。やはり、私の記憶のことを何かご存じなの!?」

ユリアナは思わず尋ねたが、義父はさらに他のことが気がかりのようだった。辛そうな眼差しでこちらを見、言葉を継ぐ。

「わ、私の死後……。お前の身は、危険に、さらされてしまう、かもしれん。なん、とか、お前を守れる者、に、ッ……!」

声を振り絞るようにしてそこまで言った時、彼は苦しげに喉を引きつらせて喘ぎ、そのままぐったりと枕の上に倒れてしまった。

「お義父さま……!」

ユリアナは慌てて、義父を楽な姿勢にさせると、その身体を支えたまま、近くの小部屋で休んでいる侍女たちを呼んだ。

「誰か、誰か来て。お義父さまが……!」

震えるその手には、まだあの、サファイアのペンダントが下がったままだった。それはランプの光に照らされ、妖しいまでに美しく輝いていた。

 

第三話 了

 

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