忘却の迷宮~黒騎士は姫君の愛を取り戻す~【第十話配信】

【第十話】口づけは嵐の中で

著作:赤城まや イラスト:かんべあきら

 

「──きゃ……!」

そしてどのくらい、嵐の中をさまよっていたのだろうか。

ふいに木の根に足を取られ、ユリアナは倒れ込みそうになってあわててその木にすがり、身を支えた。空を見上げ、とたんに閃く稲光に、思わず身を竦める。雷雨も風も一層強くなっていた。

──ここは、どこかしら……──

主人が帰宅したばかりのため、まだ降ろしていた跳ね橋を、風雨の中渡って、外の道に出た覚えはある。嵐の為、その手配に追われていた使用人たちは、まさかユリアナが館を飛び出したとは気付かなかったらしい。

ともかく館から離れよう、街も避けようと懸命に歩き続け、気がつくと、森の中に迷い込んでいた。

フォイエルバッハ家の領地は、広い範囲が針葉樹の森に覆われている、ということを思い出した。周囲はもう、時折閃く稲妻以外、何の灯もない。

真の暗闇の中で、ユリアナは身震いした。改めて、自分が今、人の手の届かないところに来てしまったと思う。そして、ユリアナの髪も喪服も、既にずぶ濡れになっていた。靴の中も泥水が入って痛い。雨も風も冷たく、全身は冷え切っている。

「……」

ユリアナは、稲光ですぐ近くに切り株が見えたため、そこに座り込んだ。疲労の為か、大きなため息がこぼれる。一体どうしたらいいのか、もうわからなくなっていた。

──でも、もう館には戻れない……──

わかっていることはそれだけだった。自分があれほどの罪を犯してしまっていると知った今、あそこには……ミヒャエルの傍にはいられない。

そう思った途端、強い哀しみがこみ上げてきた。ユリアナは慌ててかぶりを振り、わざと顔を上げ、降りしきる雨に涙を洗い流そうとした。真っ暗な空から、雨は無数の水滴を落とし、ユリアナの頬を濡らしていく。

──このまま、雨の一つになって消えてしまえれば良いのに……──

そんなことを思った時だった。

ふと、目の端を、何か明るいものがかすめた。

はっとそちらを見る。今まで、揺れる木陰に隠れて気付かなかったのだろうか。それほど遠くないところに、何か炎のようなものが見えた。

「えっ……」

──いけない。ミヒャエル様が追ってきた……!?──

思わず小さく声を上げ、切り株から身を起こす。と、

「──おい、今、女の声が聞こえなかったか!?」

「風の加減か? ──いや、こっちだぞ!」

「フォイエルバッハの家臣たちの話じゃ、雨の中飛び出していっちまったってことだが……絶対に見つけろよ! 攫(さら)うのにこんなに絶好の機会はねえ!」

その火の明かりの傍で、男たちの言い交わす声が聞こえ、ユリアナはぎょっとした。ひどく粗雑な声だった。その声と、やり取りの様子からして、ミヒャエルの臣下たちの声ではない。さらにガサガサと、森の中の、藪を強引に横切り、こちらにやって来る気配がした。

「……!」

ユリアナはぎょっとし、急いでその場から逃げだそうとした。が、それより早く、向こうの藪の中から、男たちが顔を出した。

「お、本当にいたぞ!」

「いいぞ、こいつを雇い主のところに連れてきゃいいんだろ!」

彼らは五人いた。屈強だが粗雑な顔立ちに、薄汚れた格好で剣を下げている。一見して、金で雇われた傭兵たちだとわかる。彼らは松明をかざし、ユリアナに近づいてきた。一人が手を伸ばし、呆然と目を見開いたユリアナの腕を掴む。

「きゃあっ……! いやっ!」

その手の感触にぞっとし、ユリアナは悲鳴を上げた。男たちは舌なめずりをして腕を引っ張り、ユリアナを捕らえた。不潔な匂いに、ユリアナはぞっとした。

「いやっ、放して……!」

──どうして。雇い主って、誰……──

「へええ、大したべっぴんだぜ」

「おい、この雨の中、苦労して探したんだ。連れて行く前に、少し楽しんだっていいんじゃねえか?」

「そりゃいいな」

「いやあああっ……!」

男たちは、もがくユリアナを難なく押さえつけ、笑いながら下卑た言葉で言い交わした。そして悲鳴を上げる彼女に構わず、そのほっそりとした身体を担ぎ上げるようにして、さらっていこうとした途端、

「ギャッ……!」

笑いながら先頭を歩いていた男が、いきなり切りつけられた。

男は信じられない目で血を吹いた自身の胸を見、それからその場に倒れ込んで呻いた。それでようやく、他の連中も状況に気付いた。

「あ、兄貴、どうし、うわあっ……!」

声を掛けた二番目の男も、たちまちザクリ、と繰り出された剣に脇腹を払われて悲鳴を上げる。

ユリアナも男たちも、思わずそちらを見据えた。その視線の先に、甲冑を身につけた騎士が一人立っていたのだ。

稲妻が空に閃き、その姿を映し出した。風になびく黒髪と、黒い瞳。長身で精悍なその身体につけているのは、よく使い込まれた、銀色の甲冑の上半身の部分。そしてその手にはずっしりと重そうな、大剣が握られ、その刃からは血がしたたり落ちている。背後には彼が乗ってきたらしい大きな黒い馬が見えた。

端正なその顔が、雨水を滴らせ、傭兵たちを睨み付けている。その姿はまるで、ラインラントの伝説の、罪人をさらって地獄へと導く、死の騎士のようだった。彼は言った。

「彼女を放せ。こちらに寄越すのだ」

その低い声を聞いたとたん、ユリアナはどきん、と激しく心臓が高鳴るのを感じた。やはり、ミヒャエルだ。彼がここまで追ってきたのだ……。

「ひっ……」

「こ、この……!」

傭兵たちは、今までの威張った態度はどこへやら、恐怖に悲鳴を上げた。そのうちのひとりが、自棄になった様子で斧を振りかざして襲いかかったが、あっさりと剣で足を払われ、倒れ込むところをまた、剣で横腹を切りつけられて声もなくぐっしょり濡れた地面に倒れ込んだ。剣術のレベルが、全く違っていた。

そしてミヒャエルは、もう彼には目もくれず、受けた返り血もそのままに表情も変えず、そのまま剣を無造作に低く構え、残った二人に向かってきた。

「ば、化け物だ……!」

「に、逃げろ!」

男の一人はユリアナを突き飛ばし、松明まで放り出して逃げていった。

「ひぃっ! く、来るな……来るなあ!」

残ったもう一人は恐怖で走れないのか、震える足でどんどん後ずさっていく。すると、

「なっ!? う、うわああああああーー」

「……え?」

男が突然消えた。そちらを見やると稲光によって木々がそこで途切れて崖になっていることがわかり、ユリアナはぞっとした。反響してくる悲鳴だけが響き渡る。

「落ちてしまったか……いや、それよりも」

次の瞬間、ユリアナはミヒャエルに抱きしめられていた。

「無事で、良かった……」

その温かく、力強い腕でユリアナの身体をすっぽり包み込みながら、彼はそう囁いた。

「え……」

その声に、ユリアナは目を見開いた。その声が耳に入ったのだろうか。ミヒャエルは一度手を緩め、彼女をじっと見つめた。それからふと、何かに耐えきれないように顔をしかめ、それから有無を言わせぬ仕草で、ユリアナの顎を上げさせた。

「……!」

次の瞬間、二人は雨の中で口づけをかわしていた。唇が合うと同時に割られ、舌を絡める、激しく濃厚な口づけ。

彼の舌がそうしてユリアナを求めてきた時、ユリアナはびくんと身を震わせ、微かにかぶりを振った。けれどミヒャエルはやはり、ここでも有無を言わせなかった。彼が半ば強引にそのまま温かな舌を絡ませ、激しく吸い上げられた時、ユリアナはいつしか目を閉じ、夢中でその行為を受け入れていた。ミヒャエルはユリアナの存在を確かめるかのように、熱く激しくそのまま彼女を貪っている。舌でユリアナの舌の感触を確かめ、味わい、激しく吸い上げてくる。その与えられる感触が、とても心地よかった。

「ンンッ、……!」

やがて再び雷鳴が轟いたその時、ミヒャエルは、はっとしたようにユリアナから唇を放した。口づけの濃厚さを示すかのように、一瞬、二人を、細い銀の糸が繋ぐ。だがそれはすぐ、振りしきる雨に流されていった。雨も風も、さらに強まっていた。

「ここにいてはまずい。行こう」

ミヒャエルの言葉に、ユリアナはそれでも、力なくかぶりを振った。

「駄目、です。私は、貴方に助けていただくことなんか……」

「──それは、私が決めることだ。それに、そんなことを言っている場合ではない」

再び、ミヒャエルはユリアナを凝視し、それからきっぱりとそう言い切った。そしてユリアナを軽々と抱えあげると、馬の鞍に座らせ、自分はその後ろにひらりと跨がった。

「供の者たちとは、はぐれてしまったな。この近くに、森を管理する為の小屋がある筈だ。ともかく雨をしのぐためにそこに行く」

すっぽりと彼のマントに包まれ、ユリアナはただ、頷くしかなかった。

 

◇◇◇

 

しばらく風雨の吹きすさぶ中、暗い森を進み、二人は小さな小屋にたどり着くことが出来た。

馬を濡れないようにその軒先に手際よく繋ぐと、ミヒャエルはユリアナを抱えたまま、小屋の扉を押し開け、中に入って外の、稲妻の明かりを頼りに右手にある壁の棚を探り、すぐにランプを手に取る。慣れた仕草だった。どうやらここに何度か来ているようだ。

「そこに座っていろ。すぐに火をたく」

ミヒャエルはユリアナを、マントに包んだまま、奥にあった寝台に座らせ、ランプを灯した。

それで小屋の中が、ほんのりと明るくなる。小屋は一間だけだったが、板張りのしっかりとした作りで意外と広く、すきま風も入ってこなかった。

そしてミヒャエルは、今度は薪の残っていた暖炉に火をつけた。ユリアナは呆然とその様子を見ていた。彼から離れたためだろうか。小屋の中に入ったのに、何故か身体が震えだした。

暖炉の火が安定して燃え続けているのを確かめてから、ミヒャエルはユリアナの元にやって来た。ランプを寝台のすぐ側に置く。そして、ユリアナが震えている様子に気付いた。

「どうした!?」

彼が驚いて、自分の肩に手をかける。

「だ、大丈夫、です……」

ユリアナは慌ててかぶりを振って、無理に笑みを浮かべようとした。だが出来なかった。震えがどうしても止まらない。火が焚かれて、暖かなところに来たはずなのに、指先がすうっと冷たくなっていくのがわかった。

「ユリアナ!」

ミヒャエルは顔をしかめてそんな彼女を見つめたが、すぐにさっと濡れた自分のマントを脱がせ、その身体を引き寄せた。そして呟く。

「身体が芯から冷えてしまったのだな……無理もない」

ユリアナは慌てて、自分でなんとかしようとしたが、身体が言うことを聞かなかった。情けなくて、朦朧としてくる意識の中で、ユリアナは懸命に言葉を絞り出した。泣きそうな情けない声になり、涙が瞳ににじんだ。

「ご、ごめんなさい。私、これ以上、貴方にご迷惑を、かけたくない、のに……」

とたんに、ミヒャエルが目を見張るのがわかった。だが彼はすぐに、真っ直ぐに彼女を見つめ返し、こう言った。

「迷惑だなどと思っていない。俺は、君を何としても見つけ出したかったし、助けたかった。もう、失いたくない。それは偽りない俺の意志だ」

そうきっぱりとした声で言うと、ミヒャエルはぐっしょりと濡れたユリアナの喪服に手をかけた。雨が、下着まで染み込んでいた。それを手早く、脱がせていく。ユリアナは頬を染めたが、彼の手の感触が温かく、心地よく、抵抗することが出来なかった。

「俺が、温めてやる。さ、おいで」

その声はユリアナの耳と、心とに染み込んでくるようだった。ユリアナは感触を失った手を、そっと彼に伸ばした──自分の意志で。

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