【第五話】 黒の公爵は姫君を嵐へと誘う
著作:赤城まや イラスト:かんべあきら
「……やはり、これはお父様が持っていたのね!」
凍り付いたような沈黙を破ったのは、義姉バルバラの声だった。その声で夫のグスタフも我に返り、いきなりユリアナの首から、乱暴にサファイアのペンダントを奪い取った。
「いや、返して!」
とたん、何か酷く切迫した想いがこみ上げた。絶対にそれを奪われてはならないと思った。ユリアナは喪服を引き裂かれた格好もいとわず必死で手を伸ばした。だがグスタフは構わず、それをバルバラの手に渡すと、再びユリアナを押し倒した。
「まさかお前、記憶が戻ったのか!?」
「……!?」
ユリアナは目を見張った。何故、彼らはこのペンダントを見た時にこんなに動揺したのか。そして、それはやはり自分の記憶に関係があるのだろうか。
一瞬、沸き起こった疑問は、直ぐに目の前の切羽詰まった現実に取ってかわった。グスタフがユリアナに手を振り上げたのだ。
「何を知っているんだ、このアマ、話せ!」
「ユリアナ様に何をする!」
執事のフランツが必死にグスタフに掴みかかる。侍女のハンナは悲鳴をあげながらも、邪魔をする傭兵たちの手を懸命に振り払ってフランツに加勢しようとした。だが二人とも傭兵たちにあっけなく引き戻され、手荒く押さえ込まれる。ユリアナは息を呑んだ。
「……! だ、誰か、きて! フランツとハンナを助けてっ……!」
絶望的な気持ちで叫んだ、その時、だった。
「え、っ……?」
一瞬の後、いきなり自分にのしかかっていたグスタフの姿が消えたのだ。
ユリアナは急いで半身を起こし、そしてまた、呆然としてしまった。
──疾風のような早さで、若い男が部屋に入ってきたのだ。彼は無造作にグスタフを叩きのめすと、その漆黒の瞳で、こちらをじっと見つめてきた。同じ色の黒髪を軽く流した、高く通った鼻梁と引き締まった唇。端正な面差しだが、日に焼けている為か、精悍な印象を受ける。
一瞬、ユリアナは頭が真っ白になり、身動きも出来ず、その瞳に吸い寄せられてしまっていた。
「き、貴様! 何を……」
ユリアナを我に返らせたのは、床に無様に倒れたグスタフの叫び声だった。脇腹を痛そうに押さえている。見ると男は、黒の胴着とズボンの上から、ごく上質な甲冑の、胸当てとすね当ての部分だけを身につけ、大剣を右手に下げていた。長身で引き締まった体つきの為か、その実戦的な出で立ちが、実に良く似合っている。
彼はその手の大剣の、切れる刃のところではなく、面の部分でグスタフの脇腹を叩き、押しやる形で寝台から突き落としたらしい。だがグスタフは相手の姿を認めると、愕然と目を見開いた。
「……! お前は、フォイエルバッハ公爵、ミヒャエル……!」
「どうしてここに!?」
夫に駆け寄っていたバルバラが、甲高い声を上げた。ユリアナも思わず彼を見やった。それまで、彼らと傭兵たちが大騒ぎしていた為に気づけなかったのだが、彼──ミヒャエルは背後に数名、同じく武装した騎士達を従えていた。傭兵たちとは全く異なる、明らかに戦士として訓練を受けた者たちだと、見ているだけでわかる。彼らを率いて、たった今、館にやって来たばかりのようだ。後ろに部下達を従えていることで、彼は一層、堂々として見えた。
──この方が、フォイエルバッハ公爵家の当主、ミヒャエル様……──
ユリアナは改めて、彼を見つめた。
フォイエルバッハ家は、国王を除きラインラントで最も大きな領地を有する第一の貴族である。王族からも代々、何人もの王女が嫁いでいる名門だった。そして特に最近、当主となったミヒャエルは、現国王ゴッドフリード一世と、隣国との戦争の際にを並べて戦った戦友で、その信頼も厚いという。また、当主となるや直ぐに、やや傾いていた自身の領地の経済を見事に立て直したという。それ位のことは、ずっと義父とともに領地に閉じこもっていたユリアナも聞いていた。
──そして、利にさとい傭兵たちは、彼が現われた状況で既に形勢不利と見てとったらしく、すぐさまフランツやハンナから手を離し、こそこそ出ていってしまった。彼らは泣きそうな顔でユリアナに駆け寄る。それをよそに、名を呼ばれたミヒャエルは二人を見おろすと、言った。
「直ちに傭兵どもを連れ、この館と領地から出て行け。ただ今からこの、メルツェル家の領地は、私、フォイエルバッハ家当主、ミヒャエルの管理に置かれることとなった」
その声も表情も、極めて冷ややかなものだった。なんの感情も浮かんでいない。
「えっ……」
ユリアナも呆然とする。が、それより早くバルバラとグスタフが大声で叫んだ。
「何ですって!?」
「公爵といえど、そんな勝手なことが……」
だがミヒャエルは無造作に手を振ってさえぎった。
「これは王命である。こちらが国王、ゴッドフリード一世陛下の委任状だ。お前達は陛下に逆らうつもりか?」
言いながら傍らの騎士に目配せする。騎士は一礼し、懐から一巻きの書状を取り出すと、両手で広げ、掲げるようにして皆に見せた。
金の模様で縁取られた美しい紙に、その旨が記された文章。そしてその下に、はっきりと、国王ゴッドフリード一世のサインと、ラインラント王家の、双頭の鷲の紋章の印が押されている。間違いなく国王の命令書だった。
「……!」
バルバラ達の顔色が変わった。二人はあっという間に挫けた様子だった。
そして、フランツがそっとユリアナに、手振りで窓の外を見るよう促したのでその通りにすると、ついさっきまでやりたい放題をしていた傭兵たちの姿は全くいなくなってしまい、代わりにフォイエルバッハ家と、メルツェル家の兵士とが並んで整列し、門の周辺をしっかりと守っている。どうやら兵士たちは協力して傭兵たちを追い払ったようだった。
それは、バルバラたちもすぐに気付いたらしい。二人は顔を見合わせ、今はまずい、というように目配せすると、そそくさと退出して行った。そこへ、ユリアナははっと気付いて叫んだ。
「待って、お義姉さま。ペンダントを返して……!」
とたん、バルバラは弾かれたように振り向き、憎々しげにユリアナを見た。だが彼女の言葉に、眉を吊り上げたミヒャエルが無言で手を差し出すと、渋々とその豊満な胸元からネックレスを取り出し、ユリアナではなく、彼に向かって投げつけた。青い光が美しい弧を描いて宙を舞う。が、苦も無くミヒャエルはそれを受け取った。
グスタフはこれを見て慌てたように何か言いかけたが、ミヒャエルの冷たい視線を受けて唇を噛みしめ、バルバラと二人、すごすごと出ていった。
そして、ミヒャエルは既にそんな彼らには目もくれず、ペンダントを一瞥すると、無言で手を差し出し、ユリアナに返してくれた。
「あ、ありが、……!」
ユリアナは我に返り、急いで寝台から降りてまず礼を述べかけたが、ミヒャエルが表情を変えずにずっと自分に視線を向けたままなので、はっとした。
喪服が引き裂かれてしまったので、ユリアナの上半身は白いシュミーズ一枚にされ、白い肌がむき出しになっていたのだ。細身のわりに胸が豊かなため、胸の突起がはっきり見える。あまりに目の前で起こる出来事が目まぐるしすぎ、こんな格好のままでいたことも気付かなかったのだ。
恥ずかしさに真っ赤になったが、ハンナがすぐに白の、柔らかなウールのショールを着せかけてくれたのでそれをしっかりと身体に巻き付け、何とか気を取り直してまずペンダントを両手で受け取り、首にかけた。それから、悪びれない仕草でスカートの裾をつまみ、丁寧に一礼した。
「初めまして、フォイエルバッハ公爵閣下。大変、失礼いたしました。メルツェル伯爵ヨハンの義娘、ユリアナにございます。此度は使用人共々、危ういところをお助け下さり、本当にありがとうございました。心から御礼申し上げます」
軽く膝を折り、深く頭を下げる。そして顔を上げてぎょっとした。何故か、彼が酷く苛立った表情を浮かべているように見えたからだ。だがそれは一瞬で消えた。
「──ユリアナ殿。貴女にお伺いしたいこと、そして、お話ししたいことがある。父上の葬儀が終わり次第、我が領地に同行してほしい」
そして、前触れも無しに彼はそう言った。やはり、何の感情も浮かんでいない声だった。
「えっ……?」
ユリアナは一瞬、何を言われたかわからなかった。だが慌てて、聞き返した。
「私に何か、お聞きになりたいのでしょうか……?」
今度は無言で頷く。ユリアナは当惑した。
「ですが、きちんとお答えできますかどうか……。あの、公爵閣下、正直に申し上げます。私は、過去の記憶を一部、失っているのです。十六歳の誕生日の頃から、ちょうど一年間ほどの記憶が無くなっておりまして……」
思い切って正直に告げる。まだ人々が迷信に囚われている時代で、気味悪がる者もいるので、ユリアナは義父と相談し、家族の他、一部の使用人たちだけにしかこの事を伝えていなかったのだ。義父は国王にも、ユリアナは病気で静養中、とだけ奏上していた筈である。
「問題は無い。それに話したいこともあると申し上げた。それは、貴女の記憶に関することだ」
「えっ……!?」
ユリアナは絶句した。フランツたちも驚いているのがわかる。
「そ、それは、一体……」
「ここでは何も、話すことは出来ない。全て私の領地においでいただいてからお伝えする。──また、貴女が不在の間の、メルツェル家の領地についても、ご心配は要らぬ」
ユリアナが気付いて言いかけるのをさえぎるようにして、ミヒャエルは続けた。
「貴女がわが領地にお越し下さるならば、この、メルツェル伯爵家の領地は、我がフォイエルバッハ家の兵士を遣わせ、メルツェル家の兵士と協力して守らせる。……ご様子からして、その方が良いように思えるが?」
淡々と告げられた言葉に、ユリアナは再び当惑していた。どうしよう、と思った。義父が亡くなってすぐにこの領地を離れることは領民たちを不安にさせてしまうのではないかと思う。それにミヒャエルの、何か自分に対して冷ややかな雰囲気も気になった。
──どうしてだろう。私の記憶に、何か関係があるのかしら……──
ユリアナは、ミヒャエルがバルバラからペンダントを取り返してくれた時のことを思い出していた。あの時、一瞬だったが、確かに彼は食い入るように自身の手の中のペンダントを見つめていた。あれは、何だったのだろう。
何か不安な想いがこみ上げてくる。だが、ユリアナは強いてその気持ちを抑え込んだ。ミヒャエルにどんな思惑があるにしろ、あんな粗暴な傭兵たちを平然と自分の父が治めていた領地に呼び込んだバルバラや、グスタフに比べれば遙かにましな筈だ。それに、災害や領主の死という困難に懸命に耐えている領民たちを何とかして守りたい。それにはミヒャエルと彼の臣下たちの助けが必要なのだ。残念だが、現実的に考えても、自分だけでは力が足りないと思う。
「……わかりました。公爵閣下の仰せの通りにいたします」
僅かな間に心を決め、ユリアナは真っ直ぐにミヒャエルを見つめ、頷いた。
その時、ふと、ミヒャエルの端正な唇に、僅かに笑みが浮かんだ。ユリアナは目を見開いた。ごく微かな笑みだったが、思わず惹きつけられたのだ。だが、ユリアナの視線に気付くと、すぐに彼は笑みを消した。ユリアナは当惑したが、それを顔には出さずに続けた。
「義父の葬儀と埋葬が済みましたら、すぐ閣下のご領地へと参ります。侍女たちも支度を……」
「いや、誰も連れて来ないように。使用人は私の方で準備させる。貴女一人でお越し頂きたい」
とたん、ミヒャエルがユリアナの言葉をさえぎり、そう言ったので驚いた。背後でフランツとハンナが息を呑むのがわかる。
「え!? ですが……」
ユリアナが思わず言いかけると、執事のフランツが一礼しながら彼女を庇うようにして前に出、言った。怪我の手当てもそこそこに、たまりかねたような、懸命な口調だった。
「ご無礼をお許し下さい、公爵閣下。ユリアナ様は、メルツェル伯爵家のご令嬢でございます。高貴な、しかもうら若きご婦人であれば、お支度や身の回りのお世話など、どうしても侍女が数名必要かと……!」
「そ、そうです、閣下。私も、侍女として、是非ともお供をさせていただきたいです……!」
緊張で震えながらもハンナも一生懸命に言う。だが、ユリアナは二人のそんな様子に、却って心を決めた。
「──わかりました。公爵閣下のお言葉に従います」
再び膝を折って一礼する。
「ユリアナ様……!?」
「そんな……私、お供いたします。ユリアナ様をお一人でなんて……」
「二人ともありがとう。その気持ちはとても嬉しいわ。でも、どうか行かせて頂戴」
ユリアナは忠義者の使用人たちに笑顔で頷きかけた。
「公爵閣下は、私の記憶について何かとても大切な、重大なことをお伝えしたいのだと思うわ。その為に一人で来てくれと仰っているのよ。……ごめんなさい、私はどうしても記憶を取り戻したいの。それに災害のこともあるし、今の私たちはフォイエルバッハ家の助けが必要だと思うの」
「ユリアナ様……」
「そんなに心配しないで。私はすぐに戻って来ますから。フランツ、どうか私のいない間、留守をお願いね。ハンナ、フランツとよく相談して、侍女たちを指示してね」
泣きそうな目で自分を見る二人に、ユリアナは精一杯安心させるように微笑んだ。その背後で、自分をじっと凝視するミヒャエルの視線を、ユリアナは確かに感じ、密かに震えた。
──もしかして、私はとんでもない約束をしてしまったのかもしれない……──
ふとそんな想いが、心をよぎった。
了
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