冷酷刑事になぜか溺愛されています【第五話】

第五話 助けを求める相手

 

『逃がさないよ』
ねっとりと纏わりつく気持ち悪い声が耳の中で蘇って、寒くもないのに震えがおきた。人の波をかき分けて走り出し、階段を駆け上がった。乱れた呼吸で振り返ると、黄色いネクタイの男は階段の下にいて、にやりと背筋が凍るような厭らしい笑みを愛依に向けていた。
(やだっ。どうしよ……早く、どこかに!)
大勢の人の波に呑まれて、痴漢男を撒きたいのに、まだ気持ち悪い視線に捕らえられたままだ。できるだけ身長の高い男性を見つけて、紛れ込むようにしながら愛依は改札口へと足を向けた。
改札を出ると、人の流れに逆らわずに同じ歩調で身体を小さくして、できるだけ目立たずに歩いた。肩にかけている鞄の取っ手を、手の平に爪が食い込むくらい強く握りしめる。振り返るのが怖い。まだ後ろにいたら? 近くでこっちを見ていたら? そう思うと確認するのが、怖くなる。
愛依は恐怖で震えながら、振り返る。人の数が多くよくわからないが、あの嫌な視線はないように感じた。朝の忙しいラッシュ、誰一人として愛依と視線が合わずに前を向くと、肩の力が一気に抜けた。
(良かった……これで、もう……)
痴漢男とは離れた。愛依は軽い足取りになり、職場に向かういつもの細い路地に入っていく。裏道を通る人たちは多くいる。駅から大通りに出るのに、若干だが近道になるのだ。時間にして端折れるのは一分もないと思うが、なんとなくいつも愛依は路地に入る。
大通りに出る一本手前の道で、駅からロータリーを経て順当に歩いてきた人たちと合流するのだが、そこの道の角に黄色いネクタイが目に入った。
(え? なんで? 私のほうが前にいたのに……?)
ネクタイから上に視線をあげると、あの嫌なねっとりとした視線が絡み付いてきた。安心した心に、氷柱がぐさりと落ちていくようだ。さっきよりも恐怖が割り増しで、愛依の心に襲い掛かってくる。
(なんで? どうして——)
どの道を通っていくか、すでに知られているのだろうか? だから先回りして待っていたのかもしれない。そうなるとこれから、職場へと近くなっていけばいくほど、人通りは減っていく。人の波に隠れて逃げるなんてできなくなる。
いや、もしかしたら職場すらもすでに知っているのかもしれない。逃げ場なんてそもそも、無いのかもしれない。念入りに調べられていたら? 全て知られたうえで、今日の痴漢行為に持ち込まれていたら? 考えただけでゾッとして、身の毛が逆立つのがわかった。
いつから愛依は、あの痴漢男に目を付けられていたのだろうか? 降りる駅も把握され、通る道も知られているなんて。
今日まで全く知る由もなかった。愛依が気づかなかっただけで、今まで電車でも痴漢されていたのかもしれない。当たっているのは混んでいるから、と自分が自意識過剰なだけだとやり過ごしていたから、痴漢男につけ込まれてしまったのかも。
考えれば考えるほど、自分自身を追い詰めてしまう。気づけなかった自分の不甲斐なさが、情けなくなってくる。
(電話だっ! 誰かに電話して助けを求めよう!)
愛依は鞄の中からスマホを出した。震える手で通話履歴を開く。自宅と母の履歴が淡々と並んでいる。
(ああ、黒崎部長に……)
助けを求めたい、と頭を掠めるがすぐに、連絡先を知らないと思い出す。この状況を打破してくれそうな人……と、愛依は電話帳を開き、岡本の名前を見つけて通話ボタンを押した。
黒崎もそうだが、岡本も警察官だ。こういうとき、どう対処すればいいか電話越しで良い案をくれるはず。
誰かと電話をしているというだけでも、きっと痴漢男は警戒するはず。
電子音が何度も繰り返される。朝の忙しい時間帯だ。もしかしたら気づいてもらえないかもしれない。そしたら次は、誰に電話すればいい? 警察官繋がりで兄か? 父か?
『残念……あいつ、今、扱い中で出られねえよ』
十回目の呼び出し音のあとに、黒崎の明るい声が耳に入ってきた。一番聞きたいと思っていた声が聞けて、愛依は安堵から視界が涙で一気に歪んだ。気を張っていた身体も緩み、膝がガクガクと震えだし、思わずその場に蹲りたくなる。
(黒崎部長……良かった)
声が聞きたかった。
「あっ……く、くろっ……うっ、ああ」
『大川?』
「……ぶっ、ちょ……っく、うっ」
『どうした? 何があった?』
黒崎の声が一段と低くなり、焦り始めたのがわかる。何かあったと気づいてくれたと思うだけで、嬉しくて……でも悲しくて涙が止まらない。
膝の震えからよろめきながらも、前へと足を出し続ける。本当は足を止めて、蹲って大泣きしたい。誰の目も気にせずに、喚き散らしたいが……後ろに痴漢男がまだいるかもしれないと思うと足を止めたくなかった。
「電車で……ちかっ、んに……、その人……まだ……ついて、くる……から」
『今も、か?』
「わからなっ……こわっ……後ろが、むけっ——」
『いい! 怖いなら見なくていい。今、どこにいる?』
愛依は左右を見渡した。建物で何か目標になりそうなものはないかどうかを探す。電話の向こう側では、何やらガチャガチャと騒がしい音が聞こえてくる。岡本が扱い中で出られないと、代わりに黒崎が出るくらいだ。電話してはいけない時だったのかもしれない。
「あの……ご迷惑っ……を……。もう少しで、職場……だし」
『いいから。どこにいるんだ? すぐに行くから』
「え? ……だ、だ、大丈夫ですっ。たぶん、もう……きっと」
『絶対じゃないんだろ? 怖くて振り向けないならなおさらだ。いいからさっさと場所を言え』
(電話だけでも迷惑かもしれないのに……、来てくれるのは、もっと迷惑を……かけてしまうかもしれないのに)
涙で滲んだ視界の先に、先日、黒崎と一緒に行った蕎麦屋の看板が見えた。
「あ……看板」
『どこの?』
「この前の蕎麦屋……」
『じゃ、その店に入れ。電話は切るな。いいな?』
「でも……」
(お店、閉まってるし……)
『いいから、入れ。仕込みしてんだろうから。事情を話して、俺が行くまで店内でじっとしてろ』
薫、スマホ借りてくぞ、という声が少し遠くから聞こえた。通話口を抑えて、岡本に伝えているのだろう。岡本の疑問を投げかける言葉も聞こえたが、黒崎が返答している声は聞こえずに通話口の向こう側が静かになった。
『店、入ったか?』
「いえ……まだ、です」
『入れっつってんだろうが』
「蕎麦屋にご迷惑が……」
『気にしてる場合か? 自分の身のほうを心配しろ』
「もう、居ないかもしれないし」
『居るかもしれないんだろ?』
愛依は言葉に詰まる。怖くて振り返れないから、痴漢男がまだ後を追いかけてきているか確認できていない。かといって、開店準備をしているであろう蕎麦屋の戸を開ける勇気もない。愛依は蕎麦屋の前で歩調を緩めて、迷いながら扉を眺めた。
スマホからは、黒崎の浅く短い呼吸と、外の車が通りすぎる音や風の音も聞こえてきた。
「黒崎部長? 走ってますか?」
『ああ? 走るだろっ……あんな泣き声、聞かされたら……』
「もう、大丈夫です。涙、止まりました」
黒崎のおかげだ。震える身体も、滝のようにあふれ出した涙もいつの間にか、止まっている。彼の声を聞いて安心して涙が出たのに、彼と話をして心落ち着いて涙が止まるなんておかしな話だ。
『そういう問題じゃねえ』
「え……でも、本当に……」
(職場までほんの少しだし……大通りを通っていけば……)
大丈夫な気がする。
蕎麦屋に入るのを止めた愛依は、顔を上げると歩幅を広げて歩き出した。誰かと話していれば、怖くないし、相手もやすやすと手を出してこないはず。
目の前に大きな影が出来て、愛依は視線を上げた。スマホを耳につけたまま、額から汗を流している黒崎とぶつかりそうになる。
「ばっ……馬鹿野郎っ。店に入ってろって……」
黒の薄いパーカーを羽織った黒崎が、愛依の肩に手を置いて怖い顔をする。パーカーのチャックを上までしっかり閉めている下には、青い制服の襟が見えた。ズボンも制服を着用している。今日は当直だったのだろう……ということは、まだ勤務時間中なはずだ。
「たくっ……でも、無事でよかった」
「黒崎部長……」
そうして黒崎は心底安心した顔をすると、優しく抱きしめてくれた。それだけで涙が溢れてくる。

「で、どいつ? 特徴は?」
「え? あ……っと、夏なのに珍しく黄色いネクタイを……してるなあって」
「ふーん、あいつ、か」
スッと彼の目が冷ややかに光った。耳に付けていたスマホをパーカーのポケットにしまうと、「じっとしていろ」とだけ呟いて走り出した。
彼が走っていく後姿を視線で追いかけていく。あんなに振り返るのが怖かったのに、駆け出す黒崎の背中を見ていたら、無意識に振り返っていた。愛依の視線の先では、道路の反対側にいる痴漢男が慌てて逃げようとしているのが見えた。
「蓮が僕のスマホを持って、血相を変えて出ていったけど……何かあったの?」
路地から息をきらした岡本が出てくると、愛依に気が付いて足を止めて口を開いた。岡本は警察の制服姿だった。
目が合った岡本の指が、愛依の目尻に触れて、指先がきらりと涙で光る。
「愛依ちゃん……泣いた?」
「実は……その、痴漢に遭って……」
「僕に電話を?」
「はい。駅からつけているみたいで、怖くて……どうしたらいいのか、わからなくなって」
「で、蓮が僕の代わりに出た、と。まずいなあ」
岡本の顔が一気に曇っていくのがわかった。腰に手を当てて、首を横に振っている。表情は険しく芳しくない。
ちらっと黒崎たちがいるほうに視線を送り、今にも痴漢男が捕らえられそうになっている光景を目にして、さらに暗い表情になっていた。
(どうして? なんでそんな顔を?)
何かいけないことをしてしまったのだろうか? 電話をしてはいけなかったのだろうか? 頼ってはいけなかったのだろうか? 愛依は一瞬のうちに、黒い不安が心を包み、何がまずかったのかと頭を捻り始めた。
視線の先では、黒崎が痴漢男に追いついて肩を掴み、何か話しかけているのが見える。
「あの距離で蓮が、取り逃がすわけ……ないか」
痴漢男が捕まってしまったのを、至極残念そうに岡本が呟いたのを愛依は聞き逃さなかった。ペチンと額を叩いて、小さくため息を吐き出す彼はまるで、痴漢男に掴まってほしくなさそうに見えた。
(岡本部長としては、捕まって……ほしく、なかったってこと?)
「あの……捕まえないほうが……良かったってことですか?」
「そうだね。これなら、捕まえないほうが良かった——」
目の前が真っ白になった。電車に乗っているときから、怖い思いをして……職場に行く途中もついてこられて底知れない恐怖を味わったのに。捕まらないほうが良かったとは、どういうことなのだろうか?
愛依はショックで膝から力が抜けて、ガクンと地べたに尻もちをついた。

 

第五話 了

 

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