イケメン作家先生との偶然で必然なHな関係【第一話配信】

【第一話】

著作:葉月ぱん イラスト:南香かをり

 

プロローグ

 

人垣の中心から、薔薇の花束を届けようとピエロがこちらに手を差し伸べた。

随分とロマンチックな道化師だ。自分の表情が曇るのがわかる。それでもなお口角を上げる彼は、差し伸べる白い手袋を嵌めた手の小指から一本ずつ折り曲げ、拳を作った。そして周囲に視線を流して、二つ隣で眺めていた小さな女の子の前に行くと、拳を開いてみせた。

中には、かわいい包装の飴玉が入っていた。

女の子は「わぁ」と小さな感嘆と共にその飴玉を受け取った。

マジックはいかが、とピエロはこちらを振り返る。

「夢は、眠っている間でしか見ちゃいけないものでもないよ」

真っ当なことを口にして、彼はまたこちらに手を差し伸べる。

なにを言っているのだろう。理解できないまま、は手を出していた。

特に意味はない。それこそ、花束に期待などしてもいなかった。

それでも、いつの間にか手のひらにあったシックな包装の飴玉に、気難しい顔は緩んでいて。

「おめでとう」

ピエロの優しい声がした。彼らしくない、人間味の強い声だった。

「これで、君も夢の住人だ」

 

 

胸に顔をうずめると甘い香りがした。

汗のにおいというのか、雄の香りというのか。

それを嗅ぐだけで、思考が支配されるのだけはよく知っている。

「……待っ……、て」

彼の背に爪を立てるようにして、智花は声を漏らした。

「早い、よ……ベッドに行ってから、で……っ」

ベッドヘッドを照らす間接照明だけが灯る薄暗い室内。

未だにふわふわのベッドに入ることは叶わず、玄関口で壁に押しつけられている。喘ぐ声を唇に掬われ、吐息すら彼の思うままにされ、彼の肩越しに見えた大きな姿見から、淫らな表情を魅せつける自分がいる。

「それまでいい子になんて待てないよ。だろう?」

何もかもわかったように、仕事用の黒のボトムの上から、撫でるように割れ目をなぞられる。

前に、後ろに。緩急をつけた愛撫に吐息は揺れ、びくんと身体は小さな痙攣を繰り返す。

「あ、そこ……だ、め……っ」

「ここが、いいんだ?」

耳元で囁く低声に、自然と頬が火照ってしまう。

腰が浮く感覚を紛らわせるように、智花は彼の背をつねった。

「いじ……わる」

「したくなっちゃうんだ。好きな人ならなおさらね」

ごめん、と最後には笑って謝り、智花の腰を抱き寄せてキスをする。

唇を合わせ、慣れたようにその間へと舌を差し込む。歯列をなぞり、ざらついた舌を重ねて、貪るように口腔を舐りまわす。

乱暴で、稚拙で。なのに繊細な熱情に、頭は何も考えられなくなる。

このまま、彼に身を委ねることが正解なのだと、身体に教え込まれてしまう。

「……や、だ」

「口はそう言っても、身体は正直だ」

「正直に……なりたく……っ、ないの……ぁっ」

布越しになぞられていた秘裂に、指が食い込んだ。

小さくて、でも、確かに感じて出た嬌声にさらに顔が赤らむ。どれだけ大人になろうと、恥ずかしいものは恥ずかしい。それなりの経験を持っても慣れない。

「かわいいよ、智花。もっといじめたくなるのは、君のせいだ」

そんなのはわからない。身勝手な理由を押しつけないでほしい。

けれども、身体が求めているのは快楽だ。男女の営みを、一度は味わってしまった柔らかな幸福にもう一度と手を伸ばしてしまうのは仕方のないこと。まるで麻薬のようだ。もしかしたら、さっきのディナーに媚薬でも盛られたのかもしれない。

「大丈夫。僕もそれなりに勉強しているから」

勉強とはなんだろう。彼の作品には濡れ場なんてなかったはずなのに。

思考する智花をよそに、小説家の彼は――田村(たむら)は、着ていたワイシャツを脱ぎ捨てた。

まろび出るのは鍛えられた肉体。筋肉が薄くついて、いい感じに整った男の人の身体。抱きしめる力強さはよく理解していても、実物を目の前にすると毎度、視線を外せなくなる。胸板、臍に続く割れた腹筋――そして、スラックスを張り上げる彼の、もの。

「凝視するのはよくないよ」

「や……これ、は違っ」

「智花さんはやっぱりエッチだね」

「――っ」

だって、彼が自分に興奮してくれている証でもあるのだから。

作品に惹かれ、憧れていた人が今は自分に触れ、性的に興奮しているとなればどれほど身体に自信がなくとも舞い上がるだろう。

上半身裸の彼にベッドへと招かれる。ゆったりと沈み込むマットレスの心地よい感触と共に仰向けに寝転がると、智花の上に一心が覆いかぶさった。

ボトムの前留めに手がかけられる。指先で器用に外すと、チャックが下りていく。

「……嫌いには、ならないの?」

「なにを?」

言わなくても察してほしい。

「言わなくてもわかるけど、言ってくれた方が僕は嬉しいな」

まばらにベッドの上で散る智花の髪を一房掬って、彼は笑う。

「その方が、ちょっと興奮するんだ」

「そんな……っ」

口ごもる智花に向けるいつもの笑みは、優しくてサディストめいていた。

期待した少年のように瞳をキラキラさせて、智花を見つめる一心には底がない。智花を求めるその想いの一端を理解はできない。彼の愛はどこか空虚めいていて、それでいて情熱的だ。意味がわからない。でも、それこそが惹かれてしまう所以だったのかもしれない。

「……その」

未だに衰えない期待の視線が智花を逃さない。

顔を逸らそうものなら、容赦なく頬に手が添えられた。優しく正面に戻され、「ね?」と促される。知らない。子どもじゃないのだからそこまで補助してもらわなくともできる。

膨らませるついでに、智花は頬に朱を差した。ぼんやりとした照明の灯りの中では、熱に浮かされた女が男に押し倒されている構図しか映し出されない。

でも、それでよかった。アルコールも少し入っている。

――この智花は、すでに酔いが回っているのだ。

「えっちな……女の子、とか?」

まっすぐに見れず、やはり逸らしてしまった視線は強制されなかった。

しかし、少しだけコンタクトレンズがずれた。戻そうとしてまぶたを閉じると、うっすらと暗闇の視界に影がかかる。

慌てて目を開くと、視界いっぱいに一心の顔が映っていた。

「それ、言わないといけない?」

「あなたが最初に言ったことですけど」

「あー……そうだったような気がするね」

はぐらかすように唇にキスをして、彼は視界から下向していく。首筋に顔を埋める彼の手は、胸元を隠すブラウスのボタンへとかかっていた。

「ねえ……答えは、ぁ……ん」

智花の言葉など聞きもせず、黙々とブラウスははぎ取られ、黒のブラトップインナーも早々に脱がされた。ベッドの端によけられた服に重ねるように、ボトムも続いて剥がされる。

「――答えなんて言わなくてもわかるでしょ」

首筋に軽く立てられた歯に、びくんと身体が反応する。

ショーツだけの裸体に剥かれた智花は、一心のなすがままに貪られていく。無数の花を瑞々しい肌に咲かせ、熱を持って蕩けた声を吐き出す。その唇に舌を挿し込まれ、痛いぐらいに勃った乳頭は指の腹で捏ねられる。その都度、少女のような声で鳴く智花の頭を愛おしそうに撫でる手のひらのせいで、何かを考えることを智花はやめた。

――ああ、やはり身体に従った方がいいんだ。

「もう、大丈夫そうだね」

濡れそぼつ蜜洞は、痙攣を繰り返すほどに蜜を垂らしていた。蜜を吸ったショーツはびちゃびちゃで、ベッドのシーツにすらしみを作るほどだ。目元に腕を乗せ、荒い息のまま話を聞く智花は、一心にされるがまま股を開いていた。

「挿れるよ」

上体を起こす彼は、そのまま自身の熱塊に触れていた。

腕の下からうっすらと覗く智花は、彼の下半身へと視線を向けた。長大で、雄々しい彼のそれを目の当たりにし、息を呑む自分がいる。反対に、貪欲なまでに好色を示す自分もいる。どちらも間違っていない反応だが――思考が煩わしい。どうして考えようとするのだろう。

あまりにも鬱陶しく思うその考えは、一心へとただ手を伸ばしていた。

「――来て」

その一言だけで足りる。

彼に求められ、愛されるための合言葉なんて、簡単だ。

「は……んっ――ぁ」

間髪入れずに挿し込まれた熱が、肉襞を焼き捨てるように進んだ。焦げてしまいそうな彼の体温が、胎の中を貫いている。ゆっくりと、ただ傲慢に。

「今日はすんなり入った」

「だって……ん、この前もしたから」

彼の形を憶えている。

あまり日を置かなければ、すっと彼と繋がれる。

両足を抱える彼は、何も言わずに動き始めた。鈍重に始まる抽送は、やがて奥をつつくように小刻みになって速くなった。

そのせいで、シーツを掴む手が震える。内腿に触れる彼の脇腹が逞しくて引き寄せられていく。全身が痺れるような感覚は、何度となく小さな波と一緒になって駆け抜けていく。

「もう……だめっ」

激しくなる抽送に、智花はシーツを掴んでいた手を離し、一心へと伸ばしていた。応えるように身を屈める彼は、智花へと覆いかぶさり、彼女の背へと手を回した。智花も同じく一心に抱き着き、始まる何かに期待する。

「いくよ?」

――そこから始まるのは、獣のようなセックスだった。

筋肉の盛り上がる二の腕に抱きしめられ、快楽に拘束されたまま、何度も嗚咽のような嬌声を部屋に響かせた。カーテンがかけられた窓辺がうっすらと明るさを滲ませても構うことはない。一心の猛進は、噴き上げる蜜が止まるまで続いた。

「あ、あぁ……――ッ!」

気が狂うまでイかされることで、夜が明けるころには疲弊した幸福が全身を満たしていた。

酸素も上手く取り込めず、喘ぐような呼吸音だけを部屋に溶かしていく。

「いつも、ごめんね」

並んでベッドに寝転ぶと、彼は言った。優しく耳元で囁く彼の声は、どこか遠い。意識が薄いせいかもしれない。智花は首を振る。

「嬉しいよ……なんだか、よくわからないけど」

正直、激しく求められるのは少し苦手だ。自分が自分でなくなるような感覚もそうだし、果てた一瞬は彼を見失ってしまうようでとても不安で、切なくなる。温かな下腹部の感覚を最後に感じ取って、ようやく交わったのだと理性が実感しなければ、よくわからないままなのだ。

お腹を擦りながら、智花はふっと微笑む。

「でも、こうして一緒にいられるだけで嬉しいし、幸せだよ」

「うん……僕も、そうだ」

一瞬だけ、考えるような仕草をして、彼は笑みを返してくれた。

智花の乱れた前髪を整えるように指先で触れ、一心はその手を頭に乗せてくれる。ゆっくりと、子を寝かしつける父親のように温かな手のひらで、頭を撫でてくれる。

「愛しているよ、智花さん」

頷き返す智花は、瞼を閉じる。

眠りに落ちるのはいつも一瞬だ。夢を見なければ、目が覚めるまでもおなじ。いつもこの繰り返しだ。何も不安に思うことはない。

だから、今日は不思議だった。

「一心さん……?」

目が覚めると、隣で寝ていたはずの彼がいなくなっていた。

 

 

――面白いので、ぜひ! 読んでみてください!

「……やっちゃったかなぁ」

押しに押して、押しつけたあの一冊を、今ごろになって後悔している。

太陽が中天を差した真昼。

昼休憩に入った橘智花は一週間前を思い出しながらエプロンを外すと、ため息をついた。

「また、あのこと? 彼も『面白そうですね』って言って買って帰ったんでしょ? だったら悩む必要なし、オールオッケーでしょ」

客入りがないからと店長一人残して一緒に事務所に引き上げてきた先輩が肩を叩く。

「悩むことじゃないぞ、若人よ」

「二歳しか違わないじゃないですか、わたし達……」

「二年って、結構長いと思うんだ、あたし。あと一年で三十路の女を、どうしてそんな冷めた目で見れるのか気が知れないわ、ほんと。若い子怖い」

「年齢の実感持たせるのやめてくれません?」

「やいアラサー、やい結婚適齢期ー」

「殴りますよ、ほんとに」

ごめんごめんと両手を合わせて笑う先輩は、すぐさま耳に差していたインカムに店長から要請を受け、「がんば!」と一言残し、逃げるように売り場へと戻っていく。

「……」

閉じられた事務所扉を見つめ、再びため息をつく智花はデスクに突っ伏した。

駅前から続く商店街を抜けた先の大型ショッピングモール。その中にあるチェーンのそれなりに大きい書店が、智花の勤め先だ。

大学中退後、アルバイトで入って二年間働き、「社員として働かないか」と誘われて同店舗の契約社員として入社し、それなりに順風満帆な人生も束の間、一週間前に事件が起きた。

接客業にクレーマーはつきもの。発注ミスもままあること。もとより、ミスがない人間はいないのだと励まされても、わかってはいてもため息が途切れることはない。

「だって……あれは、絶対に面白いと思うんだもん」

『感慨に堕ちる』――ある作家のデビュー作。続刊はなく、単刊完結ものの恋愛作品。

二作目からは作風が変わって酷評されはしたけれど――ただ一度の輝きだとしても、あのデビュー作は鮮烈だった。重版も三度行われた。決して大衆向けではないけれど、それでも、手に取る人は後を絶たなかった。

――それ以上に、智花にとって特別な作品であった。

この作品に出合えなければ、きっと挫けていたほどの。大学中退をきっかけに、自分を見失ってやけになっていたかもしれないほどの。

贔屓目で見ている面はあるかもしれない。だが作品の質は実績が物語っている。たとえ二作目から挫けようと、毎年出ていた新刊が去年から出ていなくとも、救われた事実は変わらない。彼は、もしかしたら彼女は、智花にとっての救世主だったのだ。

「だから、迷っているようなら絶対にオススメだと思ったんだけど、なぁ……」

ため息が重なって、智花は伸びをした。

店長デスクの上に置かれたモニターの中で、忙しなく動く先輩の姿が映る。売り場に設置された各所の監視カメラの映像が一挙に見れるモニターだ。流し気味に見つめ、ふと何かを探すように視線が振れる。無意識にあの時の失敗を挽回しようとしているのだろうか。

いや、そもそも――

「ま、お昼食べますか」

悩むことは健全だ。失敗を忘れられないのは記憶力がよすぎるだけとポジティブにいこう。

事務所端の荷物置き場の鞄からスマートフォンと、巾着に入った弁当箱を取って、席に戻る。

今日の弁当は、夕食の残りものセットである。

「いただきます」

包みを開き、箸を持って両手を合わせ、弁当の蓋を開ける。

おかずは何の変哲もない、昨夕食べた野菜炒めと鶏肉の酒蒸しだ。手軽で、しかも美味しくて、栄養もそれなりに摂れる定番食。週に四度は作る自炊楽々メニューである。少し崩れた盛りつけを鼻で笑って箸をつけると、なぜか事務所の扉が勢いよく開いた。

「智花、お客さん! 行こ!」

「休憩中。先輩、わたし、今、休憩入ったばかりです」

それに、と監視カメラの映像が映るモニターへと首を振る。

「お客さんもほら、あんまりいないし……」

と、つい箸で掴んでいた鶏肉が滑り落ち、ご飯の上にダイブした。

興奮気味に、先輩が「ほら!」と叫ぶ。

「彼! 彼が来たってばぶぐちゅ!?」

カタン、と床に箸が落ちる音がした。

すぐさま部屋を飛び出し、邪魔で押しのけた先輩が壁にぶち当たり、変な声を出していた。

いや、そんなこと、どうでもいい。

映像には誰かを探すように、売り場で頭を振る男性がいた。

見覚えのある――正確には一週間前、唐突にオススメの本を訊いてきて、自分の推し本を押しつけた相手。毎日のように思考の半分を奪い去っていった男の人。

ああ、どうして今日この日、今になって。

話したいことは多々ある。謝る? 感想を聞く? 好みと違ったなら、別ジャンルの推しを――いやいや、推しではなく、お客様目線のオススメ本を!

「――あのっ!」

週刊誌売り場に視線を落としていた大きな背中に向かって、智花は声を張っていた。

誰も気づかないはずがない。それは、少なくとも売り場に点在するお客様も、会計でぎこちない笑顔を浮かべる店長も、ゆらゆらと事務所から出てきた先輩にも聞こえるぐらいだ。

集中する視線は、同時に書店前を歩くショッピングモールのお客様からも浴びせかけられ、途端に顔は熱暴走していた。しかし、止まるわけにはいかなかった。

智花の声にびくっと肩を揺らし、彼が振り返ったのだ。

「……あ」

熱を持つ顔で、一生懸命に彼を見上げる。

目元を隠す程度に伸びた前髪、薄いレンズの眼鏡の奥にある柔らかな瞳。ほっそりとした輪郭とは裏腹に、太い首筋から開いた首元に覗く鎖骨は無骨的で。

前回来店時と変わらない、無地の長袖と、灰色のジーンズ。履き慣れた感じの薄汚れたスニーカー。そこまで憶えている自分が気持ち悪いけれど、後悔があるとずっと頭に残ってしまう性格なのだから仕方ない。

「橘、さん……?」

「え、あ、はい……あ、今はエプロンしてないですけど、ちゃんと就業中で、あ、でも休憩中でして、えっと」

何を言っているのか。

「や、そうじゃなくて、ですね。あの……ちょっと売り場に出たら、見覚えのあるお客様が、何かを探しているように見えた、ので」

もしかしたら私かもしれない、と思って出てきたなんて言えない。画素数の少ない監視カメラの映像で判別して、先輩を押しのけて事務所から出てきたなんて、とても特別な感じがして、口に出せない。

いつも職場では一つに束ねている長くなった髪を撫で、「だから」と智花は続ける。

「ちょっと声を、かけた次第なのですが……何か、お探しものでもありましたか?」

平静を装って接客スタイルへと滑り込む。

すると、一瞬視線が集中して固まった周囲の空気も、徐々に緩和しはじめていた。「なんだったんだ」「店員かよ驚かすなよ」「あの人あんな声出せたんだ」などと口々に聞こえる声を無視し、きっと赤くなっている耳を髪の毛で隠す。

彼が口を開く。

「はい、探していました。本ではなく、人ですが」

そう言うと、彼は頬をかいて恥ずかしそうに笑う。

「この前の本、面白かったです。そのお礼を言おうと思って」

「……っ!」

どこか後ろで、「グッ」とガッツポーズするような音が聞こえた。心の声だろうか。底から湧き出して胸を満たす心地よさが、代わりに喜んでくれた音なのかもしれない。

(よかった……)

失敗なんてしていなかった。むしろ面白いと言ってくれた。接客は少し間違ったかもしれないけれど、結果は正しく成功している。

ならば、控えめにいこう。湧き上がるこの喜びを抑えないと、前回の二の舞になる。

「……ほんと、ですか?」

顔色を伺うように、眼鏡の奥の瞳を覗き込む。

前髪で半分隠されていてもわかる。優しげに細められたその瞳は、信頼できるものがあった。安心感があるのだ。まるであの時、声をかけてくれたあの人のようで――

「ええ、つい夢中になって……一日中読んでいて。気づいたら、何度か読み返してい――」

「ですよね!!」

思い出に懐古する脳は、一瞬にして切り替わっていた。

それこそ、抑え込もうとしていた感情が一気に溢れ出た。同士を得られた結果か、大切な思い出かなど、どちらが大事なのかは関係ない。ただ、今はこちらを押したいだけ。それこそ、作品に没入したきっかけが思い出に関係しているのだから同じことだろう。

「わかります。だって読み返したくなります。エピローグを読んでしまったら、あの時の君の行動が、がどうしてあそこで立ち止まったのか……しかも、そうした考察をなしにしても、最後まで読んだ結果、手越君の印象が変わってしまうんです。手越君……そう、手越君なんですよ。わかりますか、手越君の決断後のあの変わりようが」

興奮気味に、智花は彼の手を取って握っていた。

表情の変化など気にせず、再び集まる周囲からの奇妙なものを見るような視線すら気に留めず、感情の赴くままに口を動かしていた。後悔はあと数瞬のうちに訪れるだろう。この胸奥から溢れ出るパッションが冷めたころに。

「ええ。特に、告白後が印象的でした。罪を告白する聖人のような語り口は忘れられません。彼はまっすぐに沙織の方を見つめながら、実はその目が彼女ではなく智也に向けられていたのも。もしかしたら……作品の中でさえ、彼を許せずに贖罪を求めたのかもしれない」

「……え?」

最後の方が聞き取れなかった。

「いや、独り言です。でも、面白かったですよ。ありがとうございます」

そうして握り返された手に、予想よりも早く智花は冷静に戻った。

動転した焦点はまっすぐ彼を見据え、興奮に火照った頬や動悸のする胸はわずかに不穏を告げる。ああ、やった。やってしまった。それでもなお、笑みを絶やさず感想を口にする彼に、すっかりと現実へと引き戻されてしまった。

「どう、しました?」

顔を覗き込む彼に、咄嗟に頭を振って智花は手を離す。

「あ、えっと……ごめんなさい」

一歩下がり、黒のボトムの後ろポケットの表面を意味もなく撫でる。そうして頬に触れる手は、どもる口を動かそうと唇をつねった。そっと周囲に視線を配れば、思った通りの展開だ。後背の先輩は額に手を当てている。そうしたいのはこちらだ。

息を整えるように一呼吸、恐る恐る彼の顔を見上げる智花の視界に映ったのは、先ほどと変わらない笑みだった。

「あ、えっと……その」

目が合わせられない。

そんな顔で見ないで。優しくしないで――好きなものに共感されて嬉しいはずなのに、反対の言葉しか思い浮かばない。嬉しそうな顔は狂ったように胸を痛ませる。

(でも、店員とお客様でしょ)

呼びかける心の声に、智花は視線を惑わせる。

わかっている。わかっていたけれど、でも。

「よく読み込まれていたので、ちょっと興奮してしまったのが恥ずかしくて……」

苦し紛れの言い訳を絞り出して様子を見ようとするが、彼はそつなく言葉を返してくる。

「いえ、僕も無理を言ってオススメを聞いた節もありますし、面白いと感じたのは本当でしたから」

それに、と続ける彼は少しだけ遠い目をして首を振った。

なんだろう。

「……いや、これはいいです。後に取っておきましょう」

「なんですか? ちゃんと今言ってくれないと気になって夜も眠れないじゃないですか!」

これだけの醜態を晒したのだ。もったいぶられると不安に駆られて目の下にクマが常にできてしまう。第一印象が重要な接客業では大きな損失だ。ファンデーションで隠せないほどの濃さには絶対したくない。化粧品もバカにならないし。

そんな智花に折れたのか、仕方ないとばかりに肩をすくめる彼は咳払いした。

「じゃあ、聞いたら僕のお願いを一つ聞いてもらっていいですか?」

交換条件? 内容次第だけれど、聞かないわけにもいかないだろう。

なにしろ今後の睡眠がかかっている。仕事に支障をきたす不安は除くべきだ。

「難しいことでなければ」

「よかった」

肩の荷が下りたように、彼はほっとした表情を浮かべた。

ふと逸らした視線の先で時計の分針が進み、昼休みが半分を切ったことを知らせる。店長の小気味いい「ありがとうございました」の声が響く店内も、聞き慣れ過ぎたBGMも、何もかもが智花と彼を残して過ぎ去っていく。この周囲だけが切り取られたように浮いているようだった。

彼が口を開く。緊張気味なのか、笑みがぎこちなく歪んでいる。

「あの本の作者、誰かわかりますか?」

彼の本ならすべて持っている。答えるのは簡単だ。

「簡単です。田村一心先生。表紙にも書いてましたよね?」

「はい。じゃあ、僕の名前は答えられますか?」

「それは……」

智花は首を傾げた。

「何度か会ったことがある、とか?」

「いや、そうではなく」

前回名前を聞いた? いや、それなら憶えてないはずがない。後悔の記憶を忘れることはないのだ。細かなところは忘れても、個人情報をすっとぼけるはずはない。

「わかりません……というか、そもそも聞いてない気がします」

「そうですね、言ってません。でも、あなたはもう僕の名前を知ってるんですよ」

どういうことだろう。もしかして、不思議な性格なのだろうか。

田村一心のデビュー作を面白いと言ってくれたまではよかったが、これ以上関わるのは危険かもしれない。けれども、胸を打つのは不快や不信ではなく、確信のない期待だった。

彼が、もし――ないとはしても、可能性を考えるのならば。

「気恥ずかしいですが、言いますね」

息をつくと、彼は恥ずかしそうに頬をかいた。

スラックスのポケットに手を入れると、長方形のケースを取り出す。その中には十数枚の厚紙が入っている。営業の方と話す際に目にする名刺ケースに似ていると思った。いや、違う。それそのものだった。

胸が鳴る。想像通りになりそうな展開に、智花の表情は歪む。

名刺を差し出して、彼は言った。

「僕の名前は、田村一心――『感慨に堕ちる』の作者です」

 

――一分が経った。

ぼーっと立ち尽くして、遠ざかっていた周囲の雑踏が急に間近になった気がした。

何も変わりはしない。周りはずっと平常運転だ。

名刺を受け取る手が震える。その紙面にはよく知る名前が書かれている。見間違えることはない。あの日、あの時、橘智花を救うために現れた救世主が、今ようやくその姿を見せたのだ。

「嘘……でしょ?」

言葉とは裏腹に、どうしてか頬が緩んでしまう。

のちにそれが彼の心に大きな傷を負わせたなど、誰がわかるものか――

 

〈つづく〉

 

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