イケメン作家先生との偶然で必然なHな関係【第二話配信】

【第二話】

著作:葉月ぱん イラスト:南香かをり

 

水泡が消える先を辿って、水面に視線を寄せる。

太陽はない。水面で屈折する照明が見えるだけで、他は機械じみている。

館内目玉の巨大水槽の前で、魚よりも水面の奥を気にする不思議な感覚は、きっと緊張しているからだろう。知らない間にドクドクと胸の鼓動が大きくなっている。

「……え? 何して」

「お礼です、お礼。気にせず、他意なく、受け取って」

頬を押さえる彼の正面で、自分の唇に手の甲を当てる。熱い。触れた感触を思い出すだけで、脳みそが蕩けたようにふにゃっとする。それだけはいけない。いけないはずなんだ。

「その、今日は……あの人の代わり、なんだからさ」

自分に言い聞かせるように口にする。

ぽつりと、「あ」と漏れる声。

聞きたくはない。

閉館一〇分前の放送が、館内に流れるBGMを遮った。

「……行こ、智也。閉まっちゃう」

出口へと顔を向け、彼の袖を引く。胸が鳴り止まない。

ここにはもういられなかった。だからといって彼を一人置いていくわけにもいかない。

でも、顔を合わせたら、智也の目を今見てしまったら。

ここにいたら、きっと――

「――待って」

引かれる手に従って、視線は智也に向いていた。

目が合った。

「なんで、泣いてるの? 沙織」

溢れてこないでほしい。

充血した瞳では、彼の顔がぼやけて見えない。

 

 

今日の天気予報は晴れのち曇り。降水確率は二〇%。

果たして本当なのだろうか。

「……やっぱり、予報裏切っちゃうのか」

遠くの方から雲が迫ってきている。

格子の嵌められた窓から望む空模様は青一色だ。それでも木々やビルの隙間からは、灰色の靄(もや)がこちらに流れてきているのが確認できる。

ページをめくる前にしおりを挟み、智花は本を閉じる。

白ブラウスに羽織った、同色のカーディガン。真紅のロングスカートを合わせ、普段履くことのないショートヒールのパンプスはデート中、転ばないようにと数日前から練習した。いつもはもっとラフだ。社会に出てからは圧倒的にボトムの方が履き慣れている。

「雨……降らないといいな」

本をしまうついでに鞄から手鏡を取り出し、前髪をチェックする。コンタクトの感度もよし。リップの乗りもいい。生きてきた中で上位に入るぐらい、化粧のコンディションは最高だ。

だから、晴れていてほしい。その方がかわいく見せられる。いや、自分がかわいいとか思ってないけれど、でも少しは、や、そう思ってほしい気持ちがあるだけで――いやいやいやいや。

からん、と音を立てる氷をかき混ぜ、智花はアイスコーヒーのストローに口をつける。

「……苦っ」

大人ぶってブラックで飲むんじゃなかった。

コーヒーと一緒に出してもらったガムシロップを二個投入し、かき混ぜる。予備を欠かさなければ見栄っぱりの失敗に対応できる。見栄をはらなければいいだけのことだけれど。

それにしても。

「いいとこ待ち合わせにするなぁ……先生(・・)」

柔らかな質感のソファー席が七席、渋めの木目テーブルが印象的なカウンター五席。

ちょうどいい、こぢんまりとした店内にはクラシックが流れ、お客も常連だけ、みたいな少ない客数はゆとりがあっていい。

店員はバーテンのお爺さんと二十代そこそこの女性店員のみ。『富田珈琲(とみたこーひー)』とプリントされた黒エプロンがちょっと渋くていい感じ。欲しいかと問われたら要らないけど、見るだけならちょうどいいデザインだ。

シャラン、と入口の鐘が鳴って、ご新規さんが来店する。「いらっしゃいませー」と朗らかに笑って接客に出るのは女性の店員だ。バーテンはコーヒー豆を挽くミルを拭いている。注文を受けた彼女がカウンターに戻ると、しわの多いにっこり笑顔でお爺さんはオーダーを聞く。孫だろうか。いや、似てないか。

腕時計に目をやると、待ち合わせまであと八分と長針が示した。

シャラン、とまた入口の鐘が鳴る。

「いらっしゃいま……あ、田村さん」

ストローの途中で、さほど甘くなってないコーヒーが止まった。

「へえ、待ち合わせなんてやりますねぇ、もう」

楽しそうな女性店員が智花の脇を抜け、バーテンのお爺さんに告げ口を――いや、注文を伝える。二人の視線がこちらに向いたのを無視して、近づく足音に智花は背筋を伸ばした。

「橘さん、待ちました?」

びくっ、と肩が揺れる。

だが、ここは冷静に。今日のためにいろいろ尽くしたし、考えたはずだ。

別に作中のデートを再現するわけでもないのだから、緊張するほどでもない。

『聖地巡礼に行きませんか?』

あの日の言葉を反芻する。

コーヒーから口を離し、智花は振り返った。

細身のジャケットに、Vネックのシャツ。スキニージーンズの取り合わせは、シンプルイズベスト、似合いすぎて思わず引き締めた頬が緩むところだった。危ない。

何を言うかはシナリオに書いた――智花は笑みを決める。

「ううん、さっき着いたばかりです。先生(・・)」

 

 

――一週間前。

事務所に置いてきたスマホを取って戻った智花は、一心とラインを交換した。

疑うことも忘れ、手のひらで踊るように、彼が作家の田村一心本人だと信じきり、彼の名前を知る代わりの交換条件を聞き入れた。

『――僕と、デートしてください』

無感情のようで、緊張で張り詰めた声。

魅力的な低声はこの時ばかりは少し裏返っていたのを憶えている。

『聖地巡礼に行きませんか? 橘さんと二人で行きたいんです』

だから、と告げられたあの言葉を、特別視しないわけじゃない。

『感慨に堕ちる』の劇中で、意中の彼に告白する前の、予行練習として行われた代替デート。そのワンシーンは、彼が指定したデート場所と符合している。

これは告白だ。遠回しの愛の告白だ。

受け入れる理由はない。でも、断る理由もなかった。だとしたら、好奇心が示す方角に進むのが理にかなっている。

智花はその場で、デートの約束を取りつけた。

『来週の木曜日。行先は東島(ひがしじま)水族館。一三時、駅前の喫茶店「富田珈琲」で待ち合わせ』

スマホのメモ帳アプリに入力した予定に、胸がきゅっとなったのは忘れられない。

 

 

――四日前。

店員と客の関係を脱し、男女の仲に進展しようとしている。

正しいこととは思えない。間違っているとも思えない。どちらともいえる矛盾を抱えて時折、送られてくる彼のメッセージにあてもなく部屋を右往左往する。

まだ始まったわけでもない恋を前に浮ついた感情はひた走る。どんな格好をしよう。化粧は? 言葉遣いは? 考えることに底はなくとも、刻一刻とデートの日は近づく。現実はどうしようもなく他人が幸せに浸る時間を妬んでいるようだ。

「最近、智花が妙にキラキラしてて私はどうしたら……辞めていいですか、店長」

「恋人が見つからないやっかみで俺の首を絞めないで」

「だって羨ましいじゃないですかぁあ!」

帰り際、事務所の戯言を左から右へ、「ふふっ」と笑う智花はスマホを両手で握りしめる。

 

 

――前日。

「ねえ、本当に彼が『田村一心』なの?」

いつものように休憩中、事務所に引き上げてきた先輩が不意に質問してきた。

「確信できる証拠ってなくない?」

「名刺は……ありますけど」

「誰でも作れるでしょ」

「まあ、確かに……」

それにさ、と先輩は手にしたスマホを操作して、ある記事を表示する。

「彼の写真一枚もないのに、本人だって決めつけられるの?」

田村一心のデビュー作『感慨に堕ちる』の新人賞受賞式の一幕。

――彼は出席しなかった。理由は知らない。一脚の空席が目立つ受賞者達の集合写真が掲載されるネットニュースのほとんどには「体調が優れないため」とあるだけで言及されない。

その後もメディアに出ず、作風も毎回変わることで「ゴーストライターがいるのでは?」とほのめかす噂すら出た。それでも顔を出さない一心に噂は風化し、同時にメディアも遠ざかった。ちょうど酷評レビューが続き、低迷していたころだった。

名前と連絡先だけで本人確認はできない。智花自身も、もしかして、とは思った。

作者本人が、聖地巡礼に行きたいとは言わないだろう。口下手なら言うかもしれない。善意の自分の言葉に耳を塞ぎ、不安を煽る悪魔に耳を貸す。

もし嘘だとしたら、手に入れた連絡先もラインも、田村一心のフリをした誰かのものということになる。そもそも出会って二回目、自身が智花のファンの作家だと明かし、デートに誘うのもおかしなものだ。オススメの本を訊いたのはナンパの口実だと考える方が利口である。

「いや、でも……」

信じられない部分は多数ある。

むしろ、冷静になればおかしなところはいくつも見つかるだろう。

「信じるなとは言わないけど、信頼するならそれ以上の警戒をね。最近、ストーカー被害とか、ナンパ被害とか、女を食い物にする事件ばっかなんだから」

言われなくてもわかってる。

その場の勢いで決めたのは自分が悪い。短絡的な部分は認める。だが、どこか熱量を感じたからこそ応じた。理由を説明できるだけの言葉が簡単に見つからなくとも、ちゃんと作品を読んできた事実は変わらない。開き直ったわけじゃないけど、その努力は見据えたものがあるじゃないか。たとえナンパ目的で作者本人でないとしても、そこは認めてあげるべきだ。

一度ぐらいのデートに応じるのもやぶさかではないと思う。いや、優しすぎるか。

スマホが一心(仮)からのメッセージの着信を告げる。

――明日、天気はいいみたいです。

それは何度も確認した。

昨日も、一昨日も。一週間前から、毎日変わる天気予報を確認して安堵に胸を撫でおろした。

――イルカショーは見られそうですね。

続けてきたメッセージに、頬が緩む。

辺りを見回すと、いつの間にか事務所をふらついていた先輩は売り場に戻っていたようだった。

――はい。楽しみです。

適当な文章を打つ。

「……なんだろ、急に不安になってきた」

服も決めて、化粧も決めた。言動だって、佇まいだって――でもそれは、田村一心のものだ。

一心ではない、誰かのためにしつらえたものではない。

本当にあなたは――

そこまで打って、智花はスマホの画面を消した。

 

 

――当日。

「わぁ! ほ、ほらっ、見てください先生! 綺麗……!」

一心の袖を引き、智花は巨大水槽を泳ぐイワシの魚群を指差す。

「あそこにはウツボもいます! あ、マンボウ! エイも! エイの顔って、ふにゃふにゃしててかわいくて好きなんですよね~」

かくして、喫茶店で一三時に待ち合わせた一心は予定通り、智花と共に東島水族館を訪れた。

電車を乗り継いで、約一五分。平日とはいえ、ゆとりのない電車旅を過ごすと、思ったよりも早く着いた。ホームに流れる潮風が鼻腔をくすぐる。道中に見えた海岸線が綺麗だった。

離島に渡るための大橋を右折し、クラゲの形をした公園を横切る。地図通りに向かえば、陽光でキラキラときらめく白壁の建物がお目見えする。入口上部に大きく『東島水族館にようこそ』とあるこの建物こそ、田村一心デビュー作の聖地であり、今日の目的地だった。

チケットを受け取り、順路通りに進むと、中心に巨大水槽が待ち構えている。

大小問わず、それこそ自然の海を一部切り取ったようなアクアリウムとして水生生物が元気に泳ぐ。中には珍しい魚もいて――智花のはしゃぎようは予想外だった。

予想外という言葉は違う。知らなかったという方が正しい。

思ったよりも混雑する館内で腕を引き始めた智花に、一心は倣うように笑みをこぼす。

「橘さん、もう時間かもしれないです」

「時間?」

自身の腕時計を指す一心に、智花は覗き込むようにその長針と短針が差す先を見つめる。

時刻は一四時半を過ぎている。

「イルカショーは一五時からです」

「……あっ」

思い出したように、智花はハッとする。

東島水族館のイルカショーは名物だ。喧伝される情報には必ずショーの内容が含まれる。インストラクターとイルカ達が織りなす共演は一度見ないと損をする――大げさな謳い文句に違わない様相は、事前の取材で知っている。だからこそ、彼女にも見せたい。彼女と見てみたかった。

それにこの水族館は、二人にとって思い出の場所になる。

デビュー作『感慨に堕ちる』で、好意を寄せる男子へ告白前の予行練習として、主人公が幼馴染みをデートに誘ったのが水族館だった。

閉館間際、巨大水槽前でお礼のキスを送るシーンは、ちょうど今いるこの場所だ。

作中に人影はない。客が少ない暗がりで、秘密を共有するように添えられた頬への接吻。彼女の艶やかな薄紅の唇に、自然と目が引き寄せられるのは、どこか期待しているからだろうか。

ジャケットの内側で、マナーモードのスマホが震える。

「さあ、行きましょうか」

「……あ、はい!」

差し出した手を、智花は一瞬迷って握った。

柔らかな手のひらの感触。触れる指の細さ。知りたかったのは、これだけじゃない。

――もう後には引き返せないな。

知ってしまえば止まれない。何もしないでする後悔よりは、いくらか胸がすくはずだろう。

恥ずかしそうに頬を赤らめる彼女の美しさは、今日も変わらない。

 

 

巨大水槽エリアを順路通りに抜ければ、深海魚や海表面近くで見ない魚の展示エリアになる。

岩に擬態して餌を取る強面のオニダルマオコゼ、土からにゅきっと顔を出して揺れる姿がかわいいチンアナゴの群棲(ぐんせい)、海の掃除屋と呼ばれるマイペースなダイオオグソクムシ。

普段、光が入らない深海にいる生物がいるからか、今まで青や白、比較的明るい色で照らされていた水槽も、ここでは赤や藍色の控えめなライトアップになっている。通路も段々と暗くなって、水槽前に行かないと表情があまりわからないぐらいには真っ暗だった。

「足元、大丈夫ですか?」

「な、なんとか……っ」

背伸びして、ヒールなんて選ばなければよかった。

人混みを掻きわけ、握った手を意識しないように、けれども離した拍子にはぐれてしまわないように智花はぎゅっと手に力を入れる。握り返す彼の手の感触は、少し柔らかい。ちょっとだけ熱くて、滲む手汗がどちらのものかわからず、恥ずかしくなる。

「はぐれないようにちゃんと握ってますから」

「……す、すいまっ……おっ」

こんな気持ちはいつ以来だろうか。大学に進学し、初めてデートに誘われた時かもしれない。あの時は交際のイロハがわからず、付き合うに至らず自然消滅したのを憶えている。

誰かの足に躓き、視界が横転しかける。

何かに掴まらないと――そうして引いた手の先は、また暗闇だった。

固いような、柔らかいような。知らない柔軟剤の香りが鼻腔を抜ける。

大丈夫ですか? ……橘さん?」

「え、あ……え?」

彼の声が頭上から聞こえた。

雑踏は脇を抜けていく。女子高生の黄色い声も、カップルの純情な会話も、子どもを叱る母親の声も、どれもが遠くなる。

背中に回された腕。耳を澄ませば聞こえる速い鼓動。

視線を上げれば、すぐそこに心配そうな一心がこちらの顔を覗いている。

知らぬ間に抱き留められていた。

「す、すいませんっ、本当に! ごめんなさ――」

「待って、離れないで」

さらに抱き寄せられ、身体が硬直する。

細い見た目とは裏腹な力強さ。さすが男の子だなと感心しても、火照る顔は止まらない。

「慌てると、他の人の迷惑にもなるので。少し、落ち着いて」

耳元で囁く一心の声に、ただ頷くことしかできない。

暗闇の中、通路の真ん中。場違いなのはわかっていても、この一瞬がずっと続いてほしいと願うのは罪だろうか。思うだけなら許されてほしい。

「っ……すいません、でした」

「いや、僕の方こそ。ちゃんとペースを守れていなかった」

一歩距離を取ってから、足元を確認する。ヒールが折れたとか、足を捻ったとかもない。いたって健康な状態だ。バランスを崩しただけで本当によかった。デートが台無しになる。

一心が視線を前に向ける。

「もうすぐ行くと土産屋と、ショー会場に続く通路に出るんです、けど」

また差し伸べる手に、智花は頷いた。

言葉は交わさない。導いてくれる一心に従って、足を動かす。周囲の水槽に時たま目を向けて、後でまた見て回ろうと思い、ショー会場への通路に出る。

と。

「あれ……?」

会場への扉は閉まっていた。

対応に出ている二名のスタッフが、扉前にある看板の脇で頭を下げている。

「イルカの体調が優れない、ため……?」

看板に書いてある謝罪文を、智花は読み上げた。

イルカも生き物だ。機械でない以上、人間と同じように病気や怪我をする。

「午前中は大丈夫だったのにー」

「なんだよ、楽しみにしてたのにな」

口々に聞こえる不満は、スタッフの顔を曇らせる。

「残念、でしたね……」

イルカショーは東島水族館の名物だ。HPなどでも、ヘッダーやトップに必ず大々的に掲載されるほど水族館側も力を入れているし、それが目当てで来るほどお客さんにも愛されている。

「すいません、せっかく来てもらったのに」

「いやいやっ、先生が謝ることじゃないですし! 体調不良じゃ仕方ないですよ」

眉尻を下げて謝る一心に、智花はぶんぶんと首を振る。

ちょっとだけ。ほんの少しだけ残念な気持ちはあるにしても、生物が相手なら仕方がない。たまには休まないと生物は身体を壊す。たまたま不調に当たってしまったけれど、それだけのこと。まだ館内すべてを回りきれていないのだし、やることも、見たいものもいっぱいある。

少しも落ち込んでいないところを見せようと、智花は笑顔を見せた。

「ありがとうございます」と笑みを返す彼は手を引く。

「今度は、イルカが万全な時に来ましょうか」

そう言って、一心は握る手に力を込めた。

「え?」とまばたきして、智花は彼を見上げた。彼の横顔は変わらない。少しだけ頬に朱が差しているようにも見える。暗がりを抜けたばかりで、通路に目が慣れていないせいか確信が持てない。いや、でも。

彼のほんのりと赤くなった耳朶の色に気付いて、胸が焦がれた。

――ねえ、「今度は」って。

胸中の呟きを返すように、苦笑いに眉根を下げた困り顔の一心が振り返る。

「ね?」

「え、あ……――」

小首を傾げて要求する彼のかわいらしさに、智花は何も言えなかった。

――次がある。

嬉しいのか、困惑しているのか、自分ではわからない。

止めた足を動かし、窮する返答に智花は頷きで返し、俯いた。

手汗で湿った大きな手のひらを握り直す。

一心が笑う。笑ってくれる。

不思議だ。

それだけで、ドキドキが止まらなくなる。

 

 

海岸線を一望できるデッキテラス。

パラソルを展開するカフェエリアの一部だが、閑散としている。九月の残暑を抜け、秋となった十月は冬よりの気候。晴れていた午前中が嘘のように遠くから迫る雲は、いつの間にか空を塞いでいた。夜を迎えるために沈む残光も、ここまでは届かない。

「あっという間でしたね、なんだか」

時間の流れは速い。大人になって感じる体感時間の速度上昇は著しいものだ。

潮風に掬われる髪を片手に押さえ、智花は一心へと振り返る。

「肌寒くなってきたので、中に入りましょうか」

彼の提案に賛成し、智花は頷いて歩く。

かじかむ指先だけを擦りつけるように、繋ぐ手を揉むように動かす。こちらを振り向く一心と顔を見合わせ、ふふっ、と笑みを交わして屋内カフェに続く扉をくぐる。

夕方にもなれば、客数はぐっと減る。もうじき始まるイルミネーションイベントなら、この時間の方が昼間よりも人が多いかもしれない。

「なにか飲みますか?」

「いえ、さっき飲んだので」

温かなカフェオレに目がいったけれど、それはさっき奢ってもらった。

あまり飲み過ぎるとお腹を壊すし、トイレも近くなる。嗜好品はほどほどにだ。

「じゃあ」

と、一心が手を引く。

水族館はすべて回った。ふれあいコーナーも、バックヤードツアーは申込みが遅れていけなかったけれど、その他はよく見て回った。二人して子供みたいにはしゃいでいたと思う。もしかしたら自分だけかもしれないけれど。

出口に向かう通路ではなく、中央に向かう道に入った。途中、巨大水槽脇を抜ける水中トンネルをくぐり、昼間よりも人気の落ち着いた暗がりへと出た。

「今日は一緒に水族館を見て回れてよかったです」

「私も……楽しかったです。ありがとうございます、先生」

「もう先生はよしてください」

照れくさそうに、一心は笑う。

「田村か一心でいいです。それに、敬語も」

「じゃあ、田村さんも」

相変わらず群れなすイワシは、水中を闊歩する。プランクトンが主食とはいえ、ひとまわりも、ふたまわりも違うサメ種にすら怯えず泳ぐ姿はさすがと思える。

海藻が揺れる。その隙間から顔を出すトラウツボが、にょろにょろと次の岩場へと抜ける。

着信を告げるバイブレーションの音がした。

「田村さん、電話じゃ?」

よく耳を澄ませれば、彼のジャケットの内側から聞こえるように思う。

他のカップルや客とは距離を置いている。壁によりかかるように、少し遠目から巨大水槽を眺める二人以外に人影はない。気のせいではないはずだ。

ジャケットの内ポケットに手を入れて何やら操作すると、一心はやんわりと首を振る。

「いいんだ、これは」

それよりも、と一心は智花の腰を引き寄せる。

「今は少しだけ余韻に浸っていたいから」

「…………ん」

抵抗せず、寄り添うように彼の肩に頭をつけた。

落ち着いた館内BGMが流れる。水槽前で戯れるカップルに目を細め、家族連れの姿に未来を妄想する。もし、一心と結婚したとしたら。子どもは何人で、どんな家に住もうか――かき消すように頭を振る。これでは愛が重たすぎてフラれてしまいかねない。

「田村さんは、その……――」

またスマホが鳴った。

今度も電話着信のバイブレーションだろう。長い振動が一心の肩につけた頭頂から直に伝わってくる。

「ごめん……ムードがないね」

「……ですね。出たらどうですか?」

急ぎの用かもしれない。

身体を離す智花に、一心は寂しそうにしながらも、作家としての顔を覗かせる。朗らかに笑う柔らかな印象から、キリッとして真面目で堅物な印象に変わる。

「少し時間もらっていい?」

智花は頷く。

両手を合わせる一心は、少し離れてスマホをタッチする。

「お仕事、大変そうだなぁ……」

作家の仕事はよくはわからない。

出版社があって、編集者がいて、作家がいて。みんなが連携して作った作品を、本屋である智花が発注をかけ、販売する。大まかな部分でしか捉えていない。

一時期は小説の執筆に手を出したことはあるが――投げ出した思い出しかない。完結させられたのはたった一作。読み返すにはよほどの覚悟が必要な黒歴史の品だ。

彼は、田村一心は今日までに小説を四作も出している。

デビューから六年。新作がなかった去年からまる一年経過し、彼もきっと次回作に追われているはずだ。その中でデートなんて――受けるべきじゃなかっただろうか。プライベートに使う時間が長くなるほど、なんだか申し訳ない気持ちになる。

「長くなってごめん。お待たせ」

スマホをジャケットの内ポケットに入れ、戻ってくる一心に智花は首を振る。

「どうだったんですか?」

尋ねると、どうもよくない報せらしい。眉間にしわが寄り、浮かべる笑みは苦くなる。

「今日は予定があると伝えたんだけど、仕事優先。締め切り間近わかってますか? って」

「……よくそんな時期にデートできましたね」

「まあ、したかったからね。デート」

「……」

正直な感想に、言葉が喉につっかえた。

「橘さん、綺麗でかわいいから」

単純な褒め言葉のはずなのに、頬が熱くなる。

幸い、薄闇の中では顔色はすぐに判別できない。視線を逸らし、「いやいやっ」と照れ笑いを浮かべて熱を逃がす。

謙遜はよくないよ、と彼は首を振る。

「仕事は実直で。小さい子には目線を合わせて、ご老人には手取り足取り本の場所を一緒に探して、クレーマーにも真摯に対処して、常に笑顔で――って、なんか語っちゃったけど、これじゃあストーカーみたいで気持ち悪いね」

「そ、そんなこと……っ」

確かに、途中からぽかんと口を開けて、すごい私のこと見てると思って聞いていた。自分がどういう動きをしていたかなんて自身じゃよくわからない。癖も、所作も、誰に対しても誠実にこなそうとしてきた努力が少なくとも認められていたのだと知れると、胸が温かくなるのだ。

「ちゃんと見ていてくれたこと……嬉しいなって思うし」

それが一心だということが――いや、彼だからこそ嬉しく感じてしまうのだろう。

彼を見上げると、自然と目が合った。

「…………っ」

人気はない。

巨大水槽前――どうしようもなく、おあつらえ向きの場所で、薄暗い場所に男女二人。想像してしまうのは本のワンシーン。

顔が火照った。視線を逸らそうにも、なぜか固まって動けなかった。

緊張? 違う。これは多分――

無言が続いて数秒。耳に入るBGMの奥で、水族館入口から足音が響いてくる。小さな子どものドタドタと走ってくる軽い足音。

「じゃあ、えっと……行こうか。駅までは送るから」

「え、あ、は……」

ハッと我に返ったように、出口に向かう通路へと一心が踵を返す。

今日はこれで終わりだ。デートは終わり、また日常に戻る。

幻想的な時間は長いようで短いものだった。延長させるためには、どうしたら――

「あ、ま――待って!」

一歩目を踏み出した一心の袖を指先で伝って、腕を掴んでいた。

思い出だ。

思い出すだけで脳が沸騰するような、くらくらしてしまうような、甘い記憶が欲しい。砂糖をいっぱい使ったお菓子よりも幸福的で、アクション映画の凄烈なバトルシーンのような衝撃をもって、傷でもいいから残ってほしい。

無我夢中だった。

腕を引き寄せ、間近に迫る彼の頬に向かって――

「――」

それは、一瞬の出来事だった。

一秒半――およそ接着した時間は、一瞬にしては長い時間だった。

一歩、二歩。よろめくように腕を離して距離を置いた智花の顔は、真っ赤な完熟トマトよりも熟れていた。目は回り、しかし自分がしでかしたことは理解しつつ。

「……た、橘さん?」

「や、こ、これはそのっ!」

柔らかな感触がまだ残ってる。

――唇を片手に押さえる一心から焦点をずらし、天井や今しがたきた家族へと向けて、智花は頭を振る。爆発しそうなほど、心臓が高鳴っている。あり得ない。どうして。湧き出る疑問を裂いて、一つしかない答えを見つめ、あわあわと唇をわななかせる。

まだ、柔らかい感触が残っている――

「お、お礼ですからっ!」

一心のデビュー作でヒロインが練習デートに付き合ってくれた男子にしたように。

「で、でも」

しかし、感情には逆らわない。

抑えることはしない。する必要もないだろう。

だから、言う。

「他意を含めて……受け取って、いただけたら、と……っ」

やっちゃったと思いつつ、続かない息に尻つぼみになりながらも、智花は言い切った。

「……」

どうだろうか。

固く瞼をつぶって、開く。約二歩分空いた隙間が、ひどく遠く感じた。

唇を押さえて目を見開いていた一心が、ふっと笑った。

「え、笑っ――」

ショックを受けたのも束の間、首を振る一心に腕を引かれ、抱きしめられる。

本日二度目の胸の内。耳が当たる彼の胸元では、どうしたことか、激しく脈打つ心音が鼓膜を叩いてくる。

「……田村、さん?」

「受け取りますね」

囁くような低声が、耳朶を震わす。

びくっと肩が震える。すると、なんだか周囲の音がよく聞こえるようになった。

「あ、待っ……田村さん! ひ、人の目が……!」

「どの口が言ってるのか」

ハグぐらい、海外では挨拶だ。でも、ここは日本。郷に入っては郷に従え、日本でそれは挨拶じゃない。

だが、智花は人のことが言えない。

人の目が完全にないわけじゃない場所で、しかも強引に腕を引いて、唇を奪ったのだ。

さらに耳まで沸騰させると、智花は一心の胸で縮こまった。それが面白いのか、くくく、と笑みを潜ませ、一心は抱擁を解いた。

「このまま連れ帰ってしまいたいぐらいかわいいけど、今日はここまで」

担当編集は怖いんです、と彼は笑う。

それがどこかバカにされたようで、むすっとしてしまう。でも、言えない。彼よりも過激にやらかしてしまった自身のせいで、何も反論できない。

「田村さんは……ずるいです」

「僕は普通です」

「ドSです」

「Mよりかもしれないな」

「ぜったい嘘っ!」

言い合って、笑い合って、周囲の視線から逃げるように踵を返す。

ほら行こ、と差し出された手を取り、智花は息をついた。

「駅まで送るよ。いい?」

智花は黙って頷いた。

ごめんね、と気遣う彼の手は温かい。

 

 

チャイムが鳴る。

誰が来ようと、扉を開けることはない。インターホンに見知った顔が映ろうと、その扉を開けることは叶わらない。来てほしくなければなおさらだ。

「お邪魔しますよー」

ガチャン、と音を立てて、鍵が開く。

誰だ、と確認することもない。いつものことだった。

「一心せんせー、どうしてしばらく電話に出てくださらなかったんですか? 私、めちゃくちゃ心配したんですけどー」

「今日は予定があると事前に言ってたはずなんだけど」

「いえ、それは前にお断りしたはずですけどー?」

「聞いてないな」

玄関に置かれるパンプスの音。

廊下を歩く聞き慣れた長調の声に、キーボードを打つ手を止める。

タイミングよく、リビングの扉が開かれた。

さらりと靡(なび)かせるショートボブの黒髪、柔らかな目元とは対照的な、真紅の唇。スーツで決めた彼女は、いつもと変わらない無邪気な笑みを湛えて、会釈する。

「こんばんわ、せんせ。寧々空(ねねぞら)です」

「合鍵を多用しないでくれ。担当編集者特権とかないんだから」

「ありますよ。一心せんせは家事をしない。編集者として、生活はサポート外ですが、私はせんせのファンな一面もあるので。よりよい環境で、新作に励んでほしいんです」

ふふん、と彼女は胸を張る。

寧々空蘭(らん)。作家・田村一心の三代目担当編集者にして、昨年入社の新人編集。

事あるごとに部屋が汚くなるのはいつものこと。集中すると、食事すら怠けようとする一心のため、一代目担当編集者から連綿と受け継がれてきた合鍵は、今や彼女の人差し指でぼーっとした顔のシロクマのキーホルダーをつけて回っている。

「さあ……っと、ところでなんですけど」

鍵を握りしめ、早速家事に取りかかろうとした寧々空は、部屋を隅々まで観察する。

「……何か変か?」

「いえ、この前……って言っても一カ月前ぐらいに届いていたはずの封筒が消えたなと」

封筒。記憶を探る一心は、すぐに封筒の在処にたどり着く。

「ああ、捨てた」

「中身読みました?」

「……いや。興味は、なかったから」

PCに向かい直す。キーボードを叩く指をストレッチし、タイピングを再開する。

「だってあれ、何かの招待状だったじゃないですかー」

「僕が行っても憶えているかもわからない会に行ってもな」

「あれま、そうですか」

そう言うと、寧々空はカレンダーに向かう。紙をめくる音が聞こえ、「うーん」と唸りながら、取り出したスマホとにらめっこしている。

「邪魔をするだけなら帰ってくれないかな」

「原稿をいただけたら、帰ります」

「データで送るから出版社で待っててほしいんだけど」

「紙原稿を直接もらうの一度やってみたかったんです!」

一度も何も、紙原稿を渡したことなど一度もない。いつの時代だ、まったく。

「もう少ししたら、二章ができる」

「やった! 先に読んでも構いませんか?」

「大人しくいるなら」

無言で両手を上げ、「やったー!」と興じる寧々空は子どものようだった。

まだ二十代前半とはいえ、もう少し落ち着いてもいい気がする。

――と。水族館ではしゃぐ智花の姿がチラつき、ふっと笑みが漏れる。

「あれ、一心せんせ。今回はギャグ要素ありましたっけ?」

「ないよ。そういうことじゃない」

ただの思い出し笑いだよ、と胸の内でひとりごちり、一心は執筆に集中する。

「ふうん」と適当に返す寧々空は、カレンダーをまためくり上げる。ペンで何か記入して、誇らしそうに鼻息を鳴らす。締め切りだろうか。

「じゃあ、待ちますねー。お茶入れます」

そう言って台所に向かう寧々空を無視しつつ、一心は集中する。

薄れてきたあの日の後悔から逃げるように。

湧き出す罪悪感の穴を塞ぐように。

今日も一心は執筆に励む。

 

〈つづく〉

 

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