書籍情報

キスの旋律

キスの旋律

著者:妃川 螢

イラスト:藤井咲耶

発売年月日:2015年02月06日

定価:935円(税込)

痛いほうが感じるの? ――やらしくて、すごく可愛い 日本人形のようにストイックな美貌と、卓越したテクニックを誇る天才ピアニスト・小田切瀞(せい)。彼のリサイタルの楽屋で、新米調律師の規也(もとなり)はパニック状態の瀞に遭遇、思わずキスしてしまう! なんとか彼をなだめ安心したのも束の間、直後、新米であるはずの規也に舞い込んだのは――瀞専属調律師の立場と、彼へのキスという「仕事」だった!? 若きクセモノ調律師x天然女王様ピアニストが奏でる恋のロマンス♥

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登場人物

成島規也(なるしま もとなり)
調律師見習いとして、冨司に弟子入りしている。芸能人のような整った印象的な顔立ち。背が高く、すらりとした手足。パニック状態の小田切瀞(せい)にキスしてから、瀞専属調律師の立場と、彼へのキスという「仕事」が舞い込む。
小田切瀞(おだぎり せい)
若手実力派ナンバー湾のピアニスト。世界の巨匠達が至高の天才と賞賛を送る、稀代の演奏家。氷のような美貌。黒く鮮やかな髪、抜けるように白い肌。ビスクドールのような玲瓏な顔立ち。

立ち読み

彼の楽屋にだけは何があっても立ち入るべからずと、スタッフ一同に戒厳令が敷かれている。だが、規也は知らなかった。冨司が言い忘れていたからだ。
「小田切さん!?」
身体を揺すると、カッと目を見開いた小田切が、思いがけず強い力で規也を突き飛ばしてきた。
「痛(い)ってぇ」
床に尻餅をついて、なんだよ!?と言う前に、小田切の様子が尋常ではないことに気づく。
「おい……?いったいどうし……」
手を伸ばそうとしたら、小田切は頭を抱えて蹲(うずくま)ってしまう。そして、恐怖に身体を震わせはじめた。
「あ…ぁ……うぅっ」
鳴咽にも似た、荒い呼吸。
萱野を呼んでこなくては……と考えるより早く、身体が動いていた。
「…………っ」
腕の中の細い身体が、ビクリと一度大きく震えて、そのあと小刻みな震えを伝えてくる。
なぜ?と訊かれても、本能だとしか説明がつかない。
気づけば、細い身体に手を伸ばし、ぎゅっと抱き締めていたのだ。
「大丈夫ですから」
いったい何がどうしたのか、さっぱりわからなかったけれど、細い肩を震わせる姿は痛々しくて、とても正視できるものではなかった。
「落ち着いて。怖くありません。俺です。成島です。わかりますか?」
小田切を思っての規也の行動は、しかし逆効果だった。
驚いて顔を上げ、規也の顔をその目に映した途端、小田切はますます激しく身体を震わせて、今度はパニックに陥ってしまったのだ。
「ちょ……どうして……?」
驚くのはこっちのほうだ。
いったい何がどうしたのか、さっぱりわからない。
「や――……っ」
黒く艶やかな髪がパサパサと白い頬を打つ。空(くう)を見つめる小田切の目は現実を捉えていない。それだけはわかった。 ――どうしろってんだよつ。
「痛ててっ、ちょ……引っ掻くなって!」
暴れる身体を、両腕を拘束することでなんとか押さえ込む。規也の腕を振り払おうともがく細い腕には、怖ろしいほどの力。ピアニストゆえと言えなくもないが、たぶんそうではなく、これは彼が我を失くしているためだ。火事場の馬鹿力というやつに違いない。
「なんなんだよ!――――くそっ」
なんとか落ち着かせなくては。
思ったことは、それだけだった。
女が癇癪を起こしたときに、そうすると静かになったから。そんな、過去のあまり褒められたものではない経験が、規也に本来ありえない行動を取らせてしまったのかもしれない。
「…………っ!?」
あとから殴られるだろうな。小田切本人はもちろん、萱野には、もしかしたら半殺しにされるかもしれない。
咄嗟に考えたのは、そんなこと。
規也の腕のなか、ピクリと震えただけで、小田切は動きを止めてしまった。
視線の先……いや、目前。空(くう)を見つめていた小田切の目に、色が戻りはじめる。
長い睫が戦慄(わなな)くのが見えた。
強張っていた細い身体から、力が抜けていく。
小田切がおとなしくなったのを確認して、そっと距離をとると、たった今まで触れていたやわらかな唇から、熱い吐息が零れた。白い瞼が、ゆっくりと閉じられる。
目が、離せなくなった。
ただ、パニックを落ち着かせるだけでよかったはずなのに、ふいに湧き起こった衝動は、止まらなかった。
抱き込んだ身体が思いがけず細くて頼りなくて、そして、触れ合わせた唇が、女のそれ以上に、甘かったから……。
誘われるように、もう一度唇を寄せる。小田切は、抵抗しなかった。
キス、してしまった。
一瞬後悔が過ったが、今さらだ。
それに、小田切を抱き締める腕の力は、緩めようとしても緩まらない。もっともっと強く抱き締めたくて、たまらなくなる。
どうして?なんて、考える余裕はなかった。
気づけば、恋人にするような情熱的な口づけをしかけていて、つい今さっきまで聞こえていたはずの理性の声は、遠く彼方へ消し飛んでいたのだ。
「……んっ」
甘い吐息が、零れ落ちた。
小田切の身体が、今度は別の意味で震えはじめていることに気づいて、規也はやっと唇を解放する。すぐに殴られることも覚悟していたけれど、彼は動かなかった。
「大丈夫……ですか?」
助けに飛び込んできておきながら襲うようなまねをして、大丈夫?も何もあったものではないが、そんな言葉しか出てこなかった。
「小田切…さん?」
返答はないが、突き飛ばされもしない。
それならと、規也はやらかしたことの責任を取ることにした。
怯えさせないように、自分の心臓の音を聞かせるように頭を抱き寄せ、根気よく背を撫でつづける。
すると、やがて少しずつ少しずつ、小田切の身体から震えが引いていった。
「すみません。落ち着かせようと思って……失礼しました。決して他意は……」
白々しい言い訳だという自覚はあったが、ほかに言葉を探せなかった。「したくなったから」なんて、ケダモノ以下のセリフで小田切に軽蔑されるのも避けたい。たとえそれが、事実だったとしても。
「……ど…し、て?」
胸に伏せられていた小田切の顔がふいに上げられて、規也は口を噤んだ。
「……え?」
呟いた小田切は、呆然と自分の身体に視線を落として、それからまたおずおずと規也を見上げてくる。
「震えて…ない……」
信じられないとでもいうように、やはりボソリと呟いた。
「あの……?」
わけがわからない規也は、キスをしたことを咎められなかったことに安堵する暇もない。今度は、目の前で再びわけのわからないことを言いだした小田切のほうが心配になる。

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